日月抄ー読書雑感 -4ページ目

赤ひげ的医者はもういないのか?

昨年8月移転新築したばかりの地元の公立病院が危機に瀕している。循環器科で昨春まで8人いた常勤医が辞めて1人だけになったのだ。辞めた7人のうち、4人は東北大学医学部付属病院から派遣されていたが、一昨年スタートした臨床研修の必修化に伴い医局の医師不足が深刻化し引き上げ、3人は開業である。現在入院患者の受け入れを休止中である。

現在は常勤医1人のほか、近隣病院や秋大医学部付属病院、開業医の応援を得て、外来診療に当たっているほか、循環器系の救急患者については、消防と連携し近隣病院などに搬送している状態である。

医師不足による地域医療の危機は日本の各地で起きている。医師の都市集中のためである。かって新人医師には、医師免許取得後10年以内に1年以上の「地域医療研修」を義務化してはどうかとの声もあったが立ち消えになったらしい。

ふと、山本周五郎の「赤ひげ診療譚」を思い出した。この小説は幕府の御番医という栄達の道を歩むべく長崎遊学から戻った保本登は、小石川養生所の“赤ひげ”とよばれる医長新出去定に呼び出され、医員見習い勤務を命ぜられる。貧しく蒙昧な最下層の男女の中に埋もれる現実への幻滅から、登は尽く赤ひげに反抗するが、その一見乱暴な言動の底に脈打つ強靭な精神に次第に惹かれてゆく。傷ついた若き医生と師との魂のふれあいを描いた作品である。

赤ひげの言葉として「医が仁術だなどというのは、金儲けめあての藪医者、門戸を飾って薬札稼ぎを専門にする、似而非医者どものたわ言だ、かれらが不当に儲けることを隠蔽するために使うたわ言だ。仁術どころか、医学はまだ風邪ひとつ満足に治せはしない、病因の正しい判断もつかず、ただ患者の生命力に頼って、もそもそ手さぐりをしているだけのことだ、しかも手さぐりをするだけの努力さえ、しようとしない似而非医者が大部分なんだ。」

私は地方を見捨てる医者が全てこのようだと思いたくない。しかし、医者としての人間の命を守るという使命感を忘れてほしくない。東北大は自分の医局の危機で派遣医を引き上げたことも、いわばお家大事のためである。せめて使命感を考えれば半分は残せたはずである。「赤ひげ的医者」は最早望むべきもないが、命を守る医師としての自覚に待つのは不可能なことだろうか。今日も近くに救急車の音がした。搬送される病院は?と人ごとながら心配になった。

山本周五郎著   赤ひげ診療譚改版 新潮文庫   2002年8月 刊

ジダンの頭突き

サッカーワールドカップ決勝でのフランスの名プレーヤー、ジダンのイタリアの選手マテラッツィへの突然の頭突きには驚いた。確かに試合中の暴力行為は厳に慎まなければなならない。しかしマテラッツィがジダンに何を言ったのか興味があり海外のサイトを調べてみたらこんな記事を発見した。

family members, in telephone interviews, said they believed the Italian defender Marco Materazzi had called Zidane, the son of Algerian immigrants, a terrorist(家族のメンバーが電話のインタービューに答えてマテラッツィがジダンに「アルジェリア移民の息子、テロリスト」と呼んだと確信している。ニューヨークタイムズ)また「お前の姉は売春婦であった」というサイトもあった。マテラッツィは否定しているが民族差別的言辞をはいたものとおもわれる。

これをいわれてジダン怒るのも無理がないように思われるが、BBCニュースによると、France's Liberation says Zidane's apparently crazy, senseless gesture serves as a brutal wake-up call. (フランスの新聞リベラシオンはジダンは明らかにクレージーでそのセンスのない行動は下品な目覚めのコールとして役にたった)と厳しく批判し、Liberation, now calls for a return down to earthFor a month, France dreamed with Zidane, it added. This morning, she's waking up with Chirac. (今地上に呼び戻された。フランスはこの数ヵ月ジダンと共に夢をみて、今朝シラク(大統領)とともに目が覚めた。)と述べている。

このセンテンスが面白い。これからフランスのエスプリを感じた。河盛好蔵の「エスプリとユーモア」によるとespritには機知の意味であるという。フランスの小話にエスプリにとんだもの多い。例えば有名なパスカルは医者嫌いで、お抱えの医者同士が決闘することを聞いて「あの連中は我々を殺ことだけでは最早満足できないとみえる」といったという。

さてシラクがジダンのミスマッチにもかかわらず、次のように述べている。You are a virtuoso, a genius of world football, you are also a man of heart, of commitment and of conviction. That is why France admires you and loves you.(あなたは世界サッカーの超人天才、心のある、説得力のある行動の持ち主である。これがフランス人があなたを尊敬し愛する理由である。)

リベラシオンはシラクと国民にエスプリをもって皮肉っているのが面白い。

河盛好蔵 エスプリとユーモア   岩波新書1969年6月刊 

太宰治「女生徒」の日記提供者

太宰治の「女生徒」は昭和14年一女学生の日記風の作品で、少女独特の感情の揺れ、気まぐれ、焦燥感、大人への憧れと嫌悪などを描いた太宰の代表作の一つとも言われている。なおこの作品は未知の愛読者の女性から送られた日記をもとに書かれたものであることで知られている。

秋田魁新報の文化欄に(平成18年7月7・7日)に秋田県大館市の成田健氏が〃太宰治「女生徒」と秋田〃という題でこの事情について詳述している。これは東京の女生徒の昭和13年から8月8日の日記で、長らく太宰夫人の津島美知子さんは所蔵したものが平成18年青森県近代美術館に寄贈され、平成12年復刻公刊されている。太宰はこの日記に共感した部分に丸印をつけており、成田さんは「太宰は女生徒の清新な日記の記録に触れ、その心情に同化して一気に小説の筆を進めたように思う」と述べている。

実はこの日記の提供者は有明淑(しづ)という方で、両親と夫が秋田県出身である。淑は当時東京に住み、太宰の作品を愛読し19歳のときに小説の題材にしてほしいと日記を届けたという。「女生徒」単行本になった昭和14年末、太宰は有明宅を訪問しその後淑との手紙の交換が行われている。

有明淑の日記は4ヶ月に亘るものであるが、太宰の作品「女生徒」はある夏の一日の語りである。少女らしい生き生きとした文章が随所にでてくる。「鏡を覗くと、私の顔は、おや、と思うほど活き活きしている。顔は、他人だ。私自身の悲しさや苦しさや、そんな心持とは、全然関係なく、別個に自由に活きている。きょうは頬紅も、つけないのに、こんなに頬がぱっと赤くて、それに、唇も小さく赤く光って、可愛い。」などは日記からの引用と思われる。

また永井荷風の「墨東綺譚 」の感想がある。「墨東綺譚 読み返してみる。書かれてある事実は、決して厭な、汚いものではないのだ。けれども、ところどころ作者の気取りが目について、それがなんだか、やっぱり古い、たよりなさを感じさせるのだ。お年寄りのせいであろうか」とあるが、これは太宰そ自身の荷風観ではないか、文章の中に太宰の顔が見えるのも興味深い。

有明淑は昭和56年亡くなるが、義父の孫娘たちの語る有明淑の人物像は川端康成が「女生徒」を読んで表現した「可憐で魅力的で高貴である」の言葉にピッタリの女性であったと成田さんは述べている。


太宰治著   女生徒 (角川文庫 ) 1983/07出版 絶版






ある日中戦争体験者の言葉

毎日新聞は「戦後60年の原点」シリーズを連載していたが、その総括編を載せるに当たって読者の原点を募集したところ250点の投稿があったそうである。その一部が昨3日の新聞に掲載された。どれも自分の体験を率直に書き感銘を受けた。その中で大坂の田端宣貞(90歳)さんの言葉が特に胸に響いた。(以下投稿文)

昭和20年5月ころ、中国湖南省の一小村に初年兵として駐屯した私は上官の命じるままに捕らえてきた一農民を銃剣術の稽古と称して刺殺した。まだ死にきっていないのに、土中に埋めた彼の「先生(シーサン)先生」といううめき声が今でも聞こえる。私の戦後の原点はこのうめき声である。私は戦争は二度としてならないと、中国語を懸命に学びに日中友好協会に入会した。日中関係はおおむね友好に経過したが、今も底流に反中国の動きがあることに心を痛めている。

日中戦争は何だったのか、かなり前に読んだ古屋哲夫氏(当時京大教授、日中戦争など、アジア近代史の研究者として知られている。)の「日中戦争」を読み返してみみた。1935年、当時の広田外相は中国側に1、排日言動の徹底的取締り、欧米依存製作からの脱却と対日親善政策の採用、2、満州国の事実上の承認と接満地域での経済的文化的融通提携、3外蒙古方面のからの赤化勢力の脅威を排除するための協力を要求する。所謂「広田三原則」であるが、他人の屋敷に踏み込んだまことに虫のよい要求である。これを機会に日本は中国への全面戦争へと拡大していく。

最近、投稿した田畑さんもいっているように「反中国」の動きを肌に感じている。靖国問題での干渉、尖閣諸島付近での中国調査船出没、中国内での反日暴動など日本を刺激する言動があるのも事実である。これが「反中国」の動きの一端になっているように思えるが、もう謝罪は済んでいると嘯いたり過去の日本の行動を忘れている方がいるのも事実である。

古屋さんは「近代日本の最大の戦争はあった日中戦争はわれわれに負の遺産を残しているにちがいないのであり、われわれは現在も清算しきれないことを自覚していかなければならないように思われるのである。」と結んでいるが、未だ忘れてならない課題である。その意味で、私は90歳の田端さんのような日中戦争体験者の言葉を(証言)大切に受け止めたいのである。

古屋哲夫著  日中戦争   岩波新書  1985年5月刊

マッカーサーの無念

日新聞の「日曜くらぶ」に戦跡巡礼が連載中である。今日の題は「因縁の島コレヒドール」である(写真江成常夫、文荒井魏)コレヒドールはマニラ湾の入り口の水路の中央にある小さな島で1942年、日本軍が島の北側に位置するパターン半島から砲弾を打ち込み攻撃し、島を守っていた米軍マッカーサーがI shall returnの言葉を残し撤退したことで知られている。

角田房子氏の著書によると「この島の要塞は、 フィリピンがアメリカに割譲されてからは大規模な建設計画が進められ1914年に完成したが、当時の最強力の軍艦による海上からの攻撃に対抗する目的で設計されたもので,その後の軍用航空機の発達は,この要塞の防御力を著しく低下させた。またワシントン海軍条約が,要塞の増加と既設工事の改修を禁止したため,アメリカは,一部の改修しかできなかった。 こうしてコレヒドール要塞は,空と陸からの攻撃に弱いという欠点を持ったまま,日米開戦を迎え、バターン半島を日本軍に占領されてからは側面掩護を失い,砲爆撃に晒され最後に決死の第4師団上陸によって陥落した。」と書いている。

このような欠陥のある要塞であるがマッカーサーにとっては屈辱の撤退であったわけである。日本軍はその置き去りにした米比軍捕虜を約百キロメートルにわたって歩かせ、約一万七千人を死亡させたいわゆる「バターン死の行進」したと非難された。(移動手段とやむをえなかたという説あり)

新聞では新井さんは「マッカーサーがこの脱出にこだわりをみせ、日本の降伏調印式にコレヒドールで敗れた捕虜になったウェートライト将軍をともない最初に署名したマッカーサーがそのペンを彼にプレゼントしたこと。バターン死の行進の責任を理由に本間雅晴中将処刑されたのはこのこだわりと無関係でないかもしれないと」述べている。

また角田さんはその著書で本間雅晴中将の夫人が裁判の前にマッカサーとあったことを書いているが、そのことについて「助命を嘆願にいったのではない。本間家の子孫に、本間雅晴はなぜ戦犯として軍事法廷に立ったかを正確に知らせるため、裁判記録がほしかったのです。あれを読めば雅晴に罪のないことがわかり、子孫は決して肩身の狭い思いなどしないはず、と思いましたので」と述べている。

マッカーサーの無念が本間雅晴中将処刑なったのか、その真実は?

角田房子著  いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝 中公文庫 1989/03出版

自分の本懐問え

福井日銀総裁が村上ファンドに1000万円を拠出しその運用額が2200万になっているという。彼自身与野党の政治のかけひきに巻き込まれて気の毒な点もあるが、ルールに抵触しないといいながらその姿勢はいただけない。

今日の毎日新聞のシリーズ「戦後60年の原点」で「経済成長」をキーワードに作家の城山三郎さんが「自分の本懐問え」のテーマで戦後経済の発展について記者の質問に答えて語っている。

そのなかで「本にされている経済人も多いですが記憶に残る人物は」に答えて「土光敏夫さん。経団連会長を辞め、第2次臨調の会長をしていたころ、自宅を訪ねると玄関の戸の滑りが悪くて開かない。ガタガタやっていると、土光さんが庭先から「そこはだめだ。こっちこっち」と手招きして縁側から家に入られれましてた。あばら家でね、庭の手入れもしない。私心のない人でね、臨調も日本のため、それがアジアのためになればと引き受けたのでしょう」と述べている。

いささかも私心がなく、国家経済の改善に乗り出した土光さんは城山さんにとっては「自分の本懐」をとげる好ましい人物に写ったようだ。城山三郎編「男の生き方40編」の中に土光さんの長男、陽一郎さんが「日曜日のない父」の題でエッセーを載せている。

とにかく家庭を省みず、家では過去のことや仕事のことを話さなかった人であったらしい。父の好きな言葉は中国の古典「大学」に出てくる「まことに日に新たに、日々新た、また日に新たなり」でその日一日を大事にしようと生きていたという。「ミスター合理化」といわれた土光さんであるが、土いじりが好きで家ではつつましい生活であったようである

城山さんは「ホリエモンや村上ファンドについて聞かれ「いつの時代にもああいうはざまに生きる人は出るもの。でも私の小説の素材にはなりません。要するに金儲けだけでしょう。カネの力に任せるところに美学はない。金儲けのうまい人や会社に興味なし。勘弁です」と切り捨てている。

そして男であろうとあろうと女であろうと「ここが自分の本懐」があるということですね。国民が意識がもてば「国の本懐」がみえてくるのではないでしょうか」と述べている。かって城山さんは国鉄総裁をした石田礼助を「粗にして野だが卑ではない」と表現したが、今の経済人には日銀総裁を始めとしてスマートだが「卑しい」人間が多すぎる。

城山三郎編 男の生き方40選  上・下  文芸春秋社1991年4月刊

哀悼、詩人宗左近さん

詩人・評論家の宗左近さんが19日未明、東京都内で死去した。尊敬し親しみを感じていた人々が最近お亡くなりになり寂しい。詩人・作家の清岡卓行さん、作家の米原万里さん、歌人の近藤芳美さんとブログで哀悼の意を表したばかりである。

宗さんがその人生の中で出会った沢山の詩歌を紹介した「詩歌のささげもの」 の読み感銘を受けた点をHPにメモしている。その中で、私は「昭和20年の東京空襲の火炎の中で母と別れ離れになり死なせたことを自分の責任と感じ、常にそれを負い目に「自分の罪」として生きてきたことが彼の詩の原点にあるということである。自分が被害者でなく加害者であるという彼の意識はずしりと胸に響く」と書いた。

宗さんは、縄文土器の収集家としても知られている。宮城県加美町にの縄文芸術館 には、宗さんが半生をかけて収集した縄文土器・土偶のコレクション200点が寄贈されたのが展示されている。2度ほど訪れたことがあるが、特に東北地方に出土した土偶、深鉢、壷などの土器には魅せられた。さすが詩人の感性はこの縄文の凄まじい超時空のエネルギーの別名こそ詩であるという言い方をしており圧倒される。

しかしなんと言っても空襲で亡くなった母を詠った「燃える母」が頭から離れない。この1月に詩集が愛蔵版として発行されたばかりである。詩の後半部である。



見ている炎の海はたちさったけれど
見みえない炎の海があふれかえっているのだから
サヨウナラはないサヨウナラとはいえない

ああ炎えあがり炎えあがりつづける母だから
わたしのまるごと垂直に宙に吸いあげられてゆきかねない
この白すぎる朝を焼きおとすために
この光すぎる中空を煙らせるために
サヨウナラはいわないサヨウナラはいいえない
わたしは炎されつづけてゆかなければならないのだから
サヨウナラぐるみ炎していったもののためにわたしは
サヨウナラぐるみ炎されつづけていかなけばならないのだから
懐かしい母の乳房の匂いのする
サヨウナラはないサヨウナラよサヨウナラ
幼い日の夕焼けの染めている
サヨウナラはないサヨウナラよサヨウナラ

戦争犠牲者や縄文人への鎮魂をうたい続けた詩人の宗左近、享年87歳。合掌。

宗左近著  長篇詩 炎える母   日本図書センター (2006-01-25出版)

歌人、近藤芳美さん逝く

戦後短歌を担い手であった近藤芳美さんが21日亡くなった。短歌に疎い私がなぜ近藤さんを知っているかというと、20数年前彼が著した「青春の碑」という自叙伝に感銘を受けた記憶があるからである。書架から埃のかぶった本をとりだし読み返してみた。

この本は近藤さんの旧制中学校、高校、大学時代、さらに中国での軍隊生活を短歌とのかかわりを中心に、家族、友人、歌人などの人間関係を描き、彼の思索する様子を率直に述べているのが印象的ある。昭和10年代、近藤少年は日本の戦争の足音の響きを目に見えない重圧として鋭敏に嗅ぎ取っていたようである。また旧制高校時代の寮生活で文学・人生を語り合う体験もしている。そこには多くの友人の名前が出てきて詳述されている。

同じ町に転地してきたアララギ派歌人中村憲吉と知り合い、さらに土屋文明に近づく。特に文明の出会いは強烈である。近藤さんの原稿をざっと目を通すとも一度全部作り直すように指示する。しかし忘れられたように片隅に残っていた近藤さんに優しい言葉をかける。文明の厳しさと優しさが伝わってくる場面である。

近藤さんは東京工大の建築科に入学するが、アララギとの関係を保った生活を送っている。当時の近藤さんの短歌が紹介されている。「国論の統制されていくさまが水際たてりと語り合うのみ」文明は「こんな歌を作っているといまに君は縛り首になるぞ」と荒い声で冗談をいったという。

しかし近藤さんのつぎの言葉が歌人としての芽生えと姿勢がうかがわれる。「周囲の世界が次々に音をたてて崩れていくような日、だれもしだい同じことを語りだす日、少年の日から、いつもためらい友人たちに恥じるように作りつづけた短歌だけが、自分の最後のことばだと私はひとり思い始めた」近藤さんの短歌生活の原点ではないか。



中国での軍隊生活体験についても詳述しているが、軍隊で上官に不条理な目に合いながら近藤さんはただ非難するのでなく、そのよさも見つけ出し描いている点は凡百の戦争体験記ではない。ただ、彼は病気で戦場に赴いていないが、日本兵の残虐な行為について兵士が語り合った事実を書き留めている。この戦争体験が近藤さんの精神生活あるいは作家活動に影響をあたえたことはまちがいない。

また妻年子さんとの出会いと結婚、支えあう二人の描写は美しい。病身の彼女をいたわりけなげに生きていく姿に感動する。死亡記事によると喪主は年子さんになっているようで未だ健在であることを知った。

この本は近藤さんは「青春の碑」と名づけているが、「今は過去になってしまった戦争を一時期の青春として共に学び、共に苦しみ、それぞれの生き方を求めて死んでいった人々を私の悔いの記録と共にひそかに目に見えない石に向かって刻みつけたかったからである」とのべている。謙虚に生きた近藤さんらしい言葉である。

私は残念ながら近藤さんの短歌の作風にについての知識はもたない。2年前、90歳を過ぎてからの歌集「岐路」を発行。その中に「テロリズムに加担するか文明の側に立つか問う単純のすでに仮借なく」 というのがあった。「今現在が時代の岐路だ。戦争とは何か。人間と戦争の関係を中世まで遡って考えなければならない」と述べていたという。(毎日新聞、坂井佐忠氏)未だ鋭い文明批評を持ち合わせていたことに驚嘆する。

過去の体験を忘れず真摯に生きた近藤芳美 享年93歳。合掌

近藤芳美著  青春の碑(上、下)1979年10月刊

善意の押し付け

地元の福祉関係紙に母親ボランテアのグループが一人暮らしの中高年者に月に何回か弁当を届ける活動をしている様子が載っていた。たまには一緒に会食する機会も設けて喜ばれているそうである。確かに善意の活動に違いないが、私のような天邪鬼には素直に受け取れないものがある。

アメリカの作家で、庶民の哀歓とユーモアを描いた作家O・ヘンリーがいる。彼は数多くの短編を書き「最後の一葉」「賢者の贈り物」などは知られた作品であるが、その中に「善女のパン」というのがある。

40歳になったミス・マーサは独身で小さなパン屋を開いている。毎日固くなった古パンの塊を買いに来る画家風の男がおり密かに思いを寄せ、めかした服装をして応対する。ある日、古パンを求めた時、たまたま消防車が通り過ぎ、男は戸口に見に行く。そのスキにミス・マーサは男が買ったパンを深く切り込みバターを塗り包んでおく。

翌日、その男が血相を変えて店に来る。毎日笑顔で会話を交わしていた男が「おまえみたいなやつを、おせっかいのバカ女というんだ。」と叫ぶ。止めに入った仲間の若い男によると、彼は建築の製図家で新しい市役所の設計図の懸賞に応募するために鉛筆で下絵を描き、それが出来上がると一握りの古いパン屑で下絵を消していたのだ。(消しゴムよりよく消える)それが彼女がパンにバターを塗ったばかりにその設計図が駄目になってしまったというのだ。

最後の場面がO・ヘンリーらしい終わり方である。「ミス・マーサは奥の部屋に行った。水玉模様の絹のブラウスをぬいで、いつも着ていた古い茶色のサージの服に着替えた。それからマルメロの実と硼砂との混合物を、窓の外の屑箱へ捨てた。」

相手を考えない思い込みの善意は他者を傷つけることが多い。私には「善意の給食弁当」にそれを感じてしまうのである。他人の食事にまで口を出さないでほしいというが私の考えである。

O・へンリー著   O・ヘンリー短編集(一) 新潮文庫 1993年3月刊

「ドミニカ移民訴訟」と「蒼氓」

今から50年前、ドミニカへ移民した日本人のうち170人(原告)が東京地裁へその移民政策の杜撰さを糾弾して国に賠償請求をしていた訴訟にたいして移民が「物心両面にわたって幾多の辛苦を重ねてきた」と述べ、国の違法性を認めながら約31億円の賠償要求は「除斥期間(20年)を経過しており、請求の権利は消滅している」という判決を下した。

ドミニカ移住は1956年、日本政府がドミニカ政府の申し出を受け、「カリブ海の楽園で広大な優良農地が無償で手に入る」と宣伝し、56年から59年の間に10数回にわたり249家族、1319人ドミニカに渡った。ところが、実際は石ころばかり多く、塩が噴出し灌漑用水もなく農業に向かず、理想とは遠くかけ離れた荒れ放題の土地だったという。

移民たちは生活苦に喘ぎ、40年以上も救済を求める要求を続けたが政府はこれといった対策をとらず、ついに2000年国を相手取り賠償請求をの提訴をしたが、判決は国の責任を認めながら時効で賠償できないというのである。国の無責任さ、法律の無情さに心が痛む。これでは「棄民政策」といわれても仕方がない。

中南米への移住は今に始まったことでない。石川達三の「蒼氓(そうぼう)」(第1回芥川賞受賞作品)は1930年代のブラジル移民についてかかれたものである。この作品は第一部 蒼氓、第2部 南海航路、第3部 声無き民となっているが、第一部では出発までの収容所の生活、第2部ではブラジルまでの航海の様子、第3部でブラジル到着し移民生活の始まりを描いている。「蒼氓」は辞書を引くと「人民、一般の人」の意味であるが、「氓」そのものには移住民、外来人の意味もある。亡+民でなんとなく棄民のニアンスを感じる言葉でもあり、石川達三はこの意味も含めているのかもしれない。



その出発にあたっては『「ブラジルさいくからには俺あ、死んだ気に働ぐつもりだ。なあ麦原さん」「ンだない」彼は皺の寄った黒い顔を上げて答えた。「どうせ、日本に居だとて何ともなんねで、飢え死ぬもんなら。・・・なしゃ」「ンだンだ」と相手は応じた。「誰もな、楽に食べられる者だら、移民にゃあなんね。なあ」』という会話の場面がある。昭和10年代の農村の状態をよく表している。あまり期待しないでの移住であったことがわかる。

またたブラジル移民の生活について「ブラジルの生活は日本で想像したような理想な天国でもないし、無限の宝庫を開く開拓者の野心的生活もないし、また易々と大成できる所でもいことが大分わかった。健康地でもない楽天地でもない。労働の激しいこともわかったし、島流しであることもわかった。」と述べている。

しかしこの小説では国の棄民政策を知りながら、この地に住もうという移民たちに対して、石川は「ここはブラジル国の土でもなく日本の土でもない。ただ多勢の各国人の寄り集まって平等に平和に暮らす原始的な共同部落に過ぎなかった。大陸の大自然のなかに迷い込んだ人間たちが住む小さな洞穴ともいうべきもであった」と書き、そこに曙光を見出し生きていこうとする移民へ励ましを送っているようにもとれる記述に注目したい。

しかるに50年前のドミニカ移住は「カリブ海に浮ぶ南海の楽園」という政府の鳴るもの入りの移住政策である。それに踊った人々を云々するのは酷であるが、期待を膨らませての出発であった。それだけになんともやりきれない痛みを感じる。

石川達三著  蒼氓・日陰の村  新潮社  1972年10月刊