日月抄ー読書雑感 -3ページ目

私にとっての8月15日

今日の各紙とも8月15日の小泉首相靖国参拝が一面のトップを飾っている。まさに小泉劇場の最後ともいうべきワンマンショウである。彼が言うように「個人の心の問題」だとしたら、騒ぎたてることはあるまい。わたしは無視したい。それ以上に8月15日終戦の意味を考えたいと思っている。

1945年8月15日、私は9歳、小学校3年生であった。残念ながら天皇の玉音放送は聞いていない。しかし数時間後、学校の先輩たちを通して日本が戦争に負けたことが伝わった。その数日前からアメリカの飛行機が飛び、ビラを撒いたことを目撃しており、悪い予感はしていた。日本はどうなるのか友人たちと幼いながら不安を話し合ったことを覚えている。

作家の高見順は「『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃたらみんな死ぬわね』と妻が言った。私もその気持ちだった。やはり戦争終結であった。君が代奏楽、内閣告諭、経過の発表。遂に敗けrたのだ。戦いに敗れたのだ。(敗戦日記)と述べているが、内容のわりに終戦の切実感が伝わってこない。

太平出版社がシリーズ「戦争の証言」20巻を発行したが、その中の一冊、小熊宗克の「 死の影に生きて 太平洋戦争下の中学生勤労動員日記」を読んだ衝撃は忘れられない。

戦争は終わってしまった!? 考えもみなかったことが突然起こった。頭が空っぽになった。目の前が黒くなったり、赤くなったりした。冗談じゃないと思った。そんなばかなことがあるのか。この期におよんで何事だ。陛下、なぜ降伏したのですか。この私はいったいどうなるのですか。私はこの汚名をどうしてぬぐったらよいのですか。この戦争を止められては絶対困る。・・・・陛下なぜ最後まで戦わないのですか。なぜ「朕のために死ね」とおっしゃらないのですか。

このような純粋な軍国少年がたくさんいたに違いない。近くの年上の旧制中学生たちの中にも、軍事工場動員、さらには「予科練を」希望したの人がいることを知っている。戦争終結はこのような軍国少年の気持ちを混乱におとしいれたのである。戦争は多くの戦死者、犠牲者を出したばかりでなく、人間の精神まで錯乱させたのではないか。私は自分のかぼそい体験をもとに61年前の8月15日、日本人がどんな気持ちで終戦をむかえたかをもっと知りたい。靖国参拝のパフォーマンスにつきあっておられないのである。

小熊宗克著著 死の影に生きて 太平洋戦争下の中学生勤労動員日記  太平出版社 発行年月 1979年刊10月 刊

「お盆」考

明日は「お盆」である。これはサンスクリット語のウラバンナを漢語で「盂蘭盆」になりそれが省略されて「お盆」になったといわれているが、柳田國男によれば、お盆は祖先の霊が家に還ってくる日であり、仏教の教えにない日本固有のものであるという説を唱えている。

柳田は、土地のよってこの霊を「ご先祖様」「ホトケサマ」というのが普通で、「ショウロウサマ」(精霊)という地域もあるという。この「精霊」は個人の霊魂であり、その精霊を「ホトケサマ」と呼んでいることに柳田は疑問を投げかけている。根本的にはお盆に還ってくるのは「仏様」ではなく先祖の「霊魂」であるというのが柳田の考えである。

それにしてもお盆の古くから伝わる民俗的風習が次第に失われてきている。以前には「ホカイ」といって墓地の前に精霊棚をつくり「食べ物」をを供える風習があった。棚の上に蓮の葉を置きそこにご馳走を供えるものであり、墓の近所の子供たちが虎視眈々とそれをねらっていた記憶がある。この風習も不衛生の名の下に無くなってしまった。柳田によると、秋田地方には「焼ホウカイ」といって盆の14日未明に餅を搗いて供える風習があったことを「秋田風俗問状答書」に書かれてあることが紹介されている。

柳田は「年中行事覚書」の中で、お盆に関して1.新精霊のある家のお盆のようす、2.盆棚の作り方と名称、3・万霊祭(家の先祖以外の所謂「無縁墓」の供養)、4.水手向け(鉢に水を盛って盆棚に供える場合水鉢に何を入れるか)、5魂迎え、魂送りのための食べ物名)、6.迎え火、送り火、7.盆小屋と辻飯(盆の終わりに少年たちが小屋をかけ煮炊きの食事をする風習)などを調べているが、柳田がいたころの時代と違いこれらの風習を殆ど調査不能になってしまった。

わが家に関しては、先祖以外の墓地を「無縁仏」として今でも手厚く祭り、「辻飯」も盆の最後の日、「送り火」にお握りを焼くことを最近まで続けていた。しかし、社会全体としては先祖の霊を祭るためのさまざまな民俗行事は殆ど無くなってしまった。

それにもかかわらずお盆の帰省ラッシュはすごい。新しいお盆の「年中行事」といってよいのかもしれない。明日のお盆に当たり、お墓や先祖に供える「盆花」の高価に家内は悲鳴をあげている。昔は自宅の畑、山野の花で間に合ったのに・・・。

柳田國男著  年中行事覚書(柳田國男全集16巻)ちくま書房 1990年5月刊

原爆忌

6日の広島原爆記念式典に継いで今日9日長崎の記念式典が行われた。秋葉広島市長は「人類は今、すべての国が核兵器の奴隷となるか、自由となるかの岐路に立たされている」と指摘。核廃絶が進んでいない現状について「世界政治のリーダーたちは『核兵器が持つ唯一の役割は廃絶されることにある』との声を無視し続けている」と批判し、伊藤長崎市長も「米国、北朝鮮、パキスタン、イスラエル、イラン、インドの核保有国や核開発疑惑国を名指しし、核不拡散体制が崩壊の危機に直面していると指摘。「核兵器の威力に頼ろうとする国々は、被爆者をはじめ平和を願う人々の声に謙虚に耳を傾け、核軍縮と核不拡散に誠実に取り組むべきだ」と訴えた。それにくらべ小泉首相の挨拶は原稿の棒読みで誠意の感じられない乏しい内容であった。

原爆被害の悲惨さ、今でも原爆病に悩む人々が多くいることにやりきれない思いである。しかし私は「反戦平和」を声高に叫ぶ前に被爆者の声に真摯に耳を傾けることが必要であると思っている。今日井伏鱒二の「黒い雨」を読み返してみた。ここには閑間(しずま)重松、シゲ子夫妻と姪の矢須子(工場勤務)の被爆体験が日記を通して描かれている。

8月7日の矢須子の日記から「昨日、宇品工場合宿所へ移ることに決定したが、実行不可能のため中止。おじさんの言葉に従って古市へ避難。おばさんもご一緒。工場の事務所で、おじさん落涙数行。広島は焼けこげの街、灰の街、死の街、滅亡の街。累々たる死骸は、無言の非戦論。今日は工場の損害調査。」

8月7日の重松の日記から「護国神社の堤のわきに銃を立銃(たてつつ)にし持った歩哨が立っていた。近寄って見ると堤に背を持たせ目をぱっちり開いた死人の歩哨であった。襟の階級章をみると陸軍一等兵である。なんとなく品格のある顔だちだ。「あらキグチゴヘイのような」シゲ子はそういった。実はキグチゴヘイの故事を思い出していたところだが「こら、失言だぞ」とシゲ子を叱った。

この内容には文学者としての井伏鱒二の静かであるが戦争呪詛の叫びが聞こえる。そして原爆病に蝕まれていく姪矢須子へのいたわりがにじみ出ている。核廃絶、不拡散の政治的叫びも必要である。そのためにも次第に老齢化している被爆体験者の声を収録し、そして若い人々に伝えていく義務があるとこの本を読み返し強く感じたのである。

井伏鱒二著  黒い雨  新潮文庫  1970年8月刊

吉村昭氏の死を惜しむ

作家家吉村昭氏が7月31日亡くなった。(79歳)。 吉村氏は」学生時代に肺結核で死と向き合った経験から文学を志し、66年に「星への旅」で太宰治賞。その後「戦艦武蔵」などで記録文学の新境地を開いたが、歴史小説を次々に手掛たことで知られている。特に史実に丹念に調べた小説には定評がある。

私は司馬遼太郎、藤沢周平、吉村昭の歴史小説が好きであるが、三者三様の特色があり、その中で確実な史料に基づいた吉村昭氏の小説にも惹かれる。読んだ作品を列記すると、長英逃亡、生麦事件、桜田門外の変 落日の宴、天狗争乱、ふぉん・しいほるとの娘、破獄、仮釈放、ニコライ遭難、敵討、関東大震災、アメリカ彦蔵、戦艦武蔵、ポーツマスの旗などで、熱烈な吉村ファンからすると少ないのかも知れない。

その中で特に忘れられないのは「長英逃亡」で、これは水沢藩出身の蘭学者長英が江戸の日本橋小伝馬町の座敷牢から脱獄し全国を逃亡したさまを描いたものである。吉村さんは歴史エッセー「史実を歩く」(文春新書1998年)でこの長英逃亡ののコースを訪ね歩き入念な調査をしたことを書いている。

このことについては小生のブログ「日月抄」の2003年12月18日の「長英の逃亡ルート」 にも書いているが、長英が故郷の母親に会いに行く場面がある。長英は新潟の直江津に滞在したことは確かであるが、阿賀野川を船でさかのぼり、「越後の国境沿いに待っていた鈴木忠吉の子分の手引きで奥州に入り大雪の北に向かった」とあり、水沢の手前の前沢で母親と会うことになる。この奥州に入ったコースは、この小説でも書かれておらずいつも疑問に思っていた。

吉村氏のの調査では長英は母親と会い、道を戻って米沢の地に入ったと「史実を歩く」に書いており、長英は水沢に入る(戻る)には奥羽山脈をどこかで縦断しなければならない。私は今では歴史的道路となってしまったが、現在の秋田県東成瀬村から岩手県胆沢町を経て水沢に抜けるコース(手倉越え)ではなかったかと今でも思っている。。吉村さんはこれについては何も書いていない。いつかお手紙を出して聞いてみたいと思ったが遂にできないでしまった。吉村氏の歴史小説は私に郷土の歴史的なロマンを膨らませてくれた。その死を惜しんでいる。

吉村昭著  長英逃亡 新潮文庫 1889年9月刊

死者を食う蟹

日本文藝家協会編の「ベストエッセー2006」 を光村図書から発売中で,選ばれたエッセイ78篇を収録している。HPにはその執筆者一覧 を載せている。

この本を購入しようとした矢先、岩波の書評誌「図書」8月号に、この「図書」から、7人の方の作品が採用されていることを知った。早速バックナンバーを調べてみると、その中に詩人小池昌代の「死者を食う蟹」がある。これは私には頭に残っている忘れられないエッセーである。

友人たちと「食べられないものの話」をしていたとき、詩人会田綱雄の詩を思い出したというのである。会田は「戦争のあった年にとれる蟹は大変おいしい、なぜならその蟹は死者を食ったから」という話を昭和15年「南京特務機関」にいて占領され虐殺された側(中国)から聞いたというのである。この口承をもとに詩「伝説」を書いたことを小池さんは紹介している。

わたしたちがやがてまた
わたしたちのははのように
痩せほそったちいさなからだを
かるく
かるく
湖に捨てにいくだろう
そしてわたしたちのぬけがらを
蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
むかし
わたしたちのちちははのぬけがらを
あとかたもなく食いつくしたように
それがわたくしたちのねがいである
(伝説の一部)

小池さんは「戦争というのは二者の鮮やか対立線をひく。勝者と敗者、加害者と被害者。そういう観点から語られるけれども、この詩においては背景に「戦争」がありながら、もはや加害者と被害者といういう二項だては無効なものになっている。「生者」と「死者」というたてかたがあるだけだ。そしてふたつは、対立でなく、連綿と続く、同一線上のものとしてとらえている。」と解釈している。

人間は蟹を食べる連鎖が続いている。つまり人間の残酷な生は蟹を通して鮮やかに見えてくる。最初に死者を食った蟹を食った人にわれわれがつながっているからである。

このように考えてくると戦争は「死者」と「生者」しかいないという会田の詩から、いくら戦争に正義の御旗と振りかざしたとしても、いたいけな多くの子供が殺害されたレバノンにおけるイスラエルの行動は「死者」を食った蟹を食べ続けているような気きがしてならない。

小池昌代作  「死者を食う蟹」   図書(岩波書店) 2005年1月号

解せない田原総一朗の発言

週刊朝日に連載中の田原総一朗の「ギロン堂」(8月4日号)で「マスメデアは感情に訴えるだけでいいか」のテーマで、最近のマスメデアは「首相や閣僚について真っ向からその政策を取り上げて批判していては視聴率はとれない。結局揶揄してからかって感情的に非難しないと視聴者は乗ってこない」というある報道番組のプロデューサーの話を紹介して最近感情的に批判する番組が増えている(新聞も含めて)ことを指摘している。

そして少なからぬ国民は政権政党、権力者に不満を覚えている。「感情的な批判」は国民の不満のガス抜きにはなるだろう。だがそればかりやっていては国民が構造的、政策的な問題を考える機会を奪ってしまうことになる。言ってみれば国民を政治の現実から遠ざける役割を演じてしまうことになると」と、もっともらしい警告をしている。

「郵政民営化」の衆議員総選挙では、マスメデアは「感情的な訴え」で小泉劇場を演出し、そのお先棒をかついだ一人が田原氏ではなかったか?その彼が小泉首相への「感情的批判」はお気に召さないらしい。特にこのコラムでは小泉首相の訪米を例に出して、「日本の首相の訪米をアメリカメデアが好意的で歓迎したのに日本の少なからぬマスメデアは小泉首相のパフォーマンス(エルビス・プレスリー邸でのプレスリーの物まねなど)をまるで日本の恥であるかのように報じ、アメリカとまったく逆の情報を日本の国民に与えてしまった」とえらくご立腹の様子。

はたしてアメリカは小泉首相を本当に歓迎したのか。アメリカの情報提供で定評のあるブログ「暗いニュースリンク」 7月3日号に「恥を忘れた日本人:小泉首相の遠足外交に全米が仰天」 という記事をを載せている。(参照)



それによるとTIMSONLINの英タイムズ紙記者、リチャード・ロイド・パリー氏が「今後、数百万人のアメリカ人が小泉純一郎に対して抱く唯一の記憶は、エルビスを歌う不気味な日本人ということになるだろう」と、またニューヨークタイムズ紙の人気女性コラムニスト、モウリーン・ダウド氏が「東京から来た興奮しすぎの客人をブッシュ大統領が制止しようとする一幕もあったが、小泉は止まらなかった。」さらにワシントンポスト紙のピーター・ベイカー記者は「日本の首相である小泉純一郎を、今ではメンフィスの国家最重要観光地である場所に友人として連れて行くのは一興であった。しかし金曜日に、ウェーブのかかった髪を持つ日本の指導者がエルビスの歌を囁き始めると、大統領は一歩引いた」ことを紹介している。

田原氏の話と大分違うアメリカメデアの反響である。なぜ、「感情的批判」の例としてわざわざ小泉訪米を持ち出したのか?小泉首相擁護のためと勘ぐりたい内容である。「感情的な批判」を批判するのならば、その前提として真実の報道をすべきではないか。

原寿雄氏はその著書で、「新聞も放送も「権力の番犬」としての役割を果たそうとすれば常に権力者にとってうるさい存在でなければならない。非統治者=人民の立場に立って権力を監視するのがジャーナリズムの基本的役割なのに、しばしば吠える事も噛み付くことも忘れた番犬になってしまったり、いつもいねむりばかりして監視の役に立たない番犬もいる。時には「権力の応援団」になる番犬もいる。田原氏は誰に向かって吠え付き、噛み付いているのだろうか?

原寿雄著 ジャーナリズムの思想 岩波新書  1997年4月刊

A級戦犯広田弘毅と靖国合祀

靖国神社へのA級戦犯の合祀をめぐっては今月、昭和天皇が不快感を示したとされる88年当時の宮内庁長官のメモが明らかになった。今日のASAHI・COMによると、東京裁判でA級戦犯として起訴、処刑された広田弘毅元首相が靖国神社に合祀されていることについて、孫の元会社役員、弘太郎氏(67)が朝日新聞の取材に応じ、「広田家として合祀に合意した覚えはないと考えている」と、元首相の靖国合祀に反対の立場であることを明らかにした。「靖国神社は、遺族の合意を得ずに合祀をしている。処刑された東条英機元首相らA級戦犯の遺族の中で、異議を唱えた遺族は極めて異例だ」だという記事を載せている。靖国神社広報課は「広田弘毅命に限らず、当神社では御祭神合祀の際には、戦前戦後を通して、ご遺族に対して御連絡は致しますが、事前の合意はいただいておりません」としている。要するに遺族の意向も聞かずに合祀しているわけである。

広田弘毅は絞首刑にされた7人のA級戦犯のう唯一文官出身であった。彼の生き方については城山三郎が小説「落日燃ゆ」に詳しい。判決内容は広田が首相や外相として「共同謀議」に加わり、日中外交の努力を欺瞞政策と決め付けらている。そして判決は6対5の1票差であった。

教誨師の花山信勝が死刑の間際に「何かありませんか」という聞いたときに「すべて無に帰して、言うべきことをいって、つとめ果たすという意味で自分はきたからいまさら何もいうことは事実ない。自然に生きて、自然に死ぬ」と述べ、家庭の手紙も不満や愚痴めいたことは一切書かなかったといわれる。

板垣征四郎や木村兵太郎 が「バンザイ(万歳)」を叫び断頭に上がったとき、広田は意識して「マンザイ(漫才)」といったことを花山教誨師は記録している。城山さんは「これは広田の最後の痛烈な冗談ではなかったか。万歳!万歳!の声、それは背広の男広田の協和外交を次々とつき崩していく悪夢の声である。生涯自分を苦しめてきた軍部そのものである人たちも心ならずも一緒に殺され行く。このこともまた、悲しい漫才でしかない。」と述べいる。しかし広田の戦争責任は残る。それを毅然として受け入れ一切弁解しなかった彼に愛惜の念は残る。

城山三郎さんは「広田さんのご遺族の思いを聞いて、やっぱりそうか、との思いが深い。ご遺族の言葉に付け足す言葉はない。広田さんだったらどう思うか、どうしただろうか、熟慮したうえでの考えだと思う」と話している。

城山三郎著  落日燃ゆ  新潮文庫  1986年11月刊

岸信介のDNA

自民党総裁選挙も福田氏の辞退で、安倍信三氏が独走であることを各紙が報じている。その安倍さんが23日の横浜市の講演会で靖国参拝について「サンフランシスコ平和条約を受け入れたから参拝すべきではないというのは飛躍した議論ある意味でとんちんかん」だと述べ、東京裁判を受諾するとした同上第11条に関して「国際法で平和条約が結ばれたら戦争裁判の判決や刑は無効だ。日本が勝手に戦犯を釈放できないようにするために書いたもので独立のためにやむを得ない決断だった」と語っている。

平和条約11条は「日本国は極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものである」と規定している。いわば日本政府はすべての戦争犯罪の判決を承認し刑の執行の義務を負うことになったのである。よく勝者中心の極東軍事裁判批判であり、それなりの正当性があること知っているが、「戦争裁判の判決や刑は無効である」とは恐れ入った。

確かに戦争犯罪は個人の刑法的責任を問うものである。しかし法律で処罰できない責任もあるはずである。政治的責任や道義的責任もある。いわゆる「戦争責任」は関係した者が負わなければならない。私もこれを安易に靖国問題に結びつけて考えるのは飛躍があるとは思うが、日本の戦後の歴史を一部分だけを切っての発言に危惧の念を覚える。実際には条約締結後、戦犯釈放運動が起こり、世界の冷戦構造を背景に連合国側も日本を西側陣営にひきつけておくために、日本政府の要求に応じ戦犯釈放を行っている事実も忘れては「なるまい。

安倍さんの祖父岸信介(元首相)は東条内閣時代の商工相として対米開戦に副署し、戦争遂行に協力したとしてA級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨で獄中生活を送っている。ところが東京裁判には批判的で、今次戦争における日本側の「正当防衛」を主張したという。そしてこの裁判は国際法によって戦争犯罪を裁くのでなく政治的報復であると批判し、国際法上の戦争裁判は「戦争の法規また慣例の違反」に限られるという弁護側の主張を支持したといわれている。東京裁判の不平等をついていることも事実であるが、今回の安倍さんの考えと類似していることに驚く。これもDNAのなせるワザか?

原彬久著  岸信介ー権勢の政治家ー  岩波新書   1995年1月刊

「医療崩壊」を読む

先日ブログに「赤いひげ的医者はもういないのか」という書き込みに対して勤務医の方から医療の現状はそう単純ではないとのご指摘を頂き、勤務医の現状を知るために「医療崩壊」という本の推薦を頂いた。早速その本を読み、自分が現代医療の状況にいかに無知であったか思い知らされた。

著者の小松氏は大病院の泌尿器科部長である。まず日本の医療機関は「医療費抑制」と「安全要求」の相矛盾する強い圧力にさらされていることを指摘し、医療が崩壊の危機に瀕している現状を述べている。

特に、患者は医学万能を信じその回復を期待し、一方医師は医療の限界、危険性を知っておりそこの医師と患者の考え方に齟齬が生じる事を指摘している。そこで著者は医師の医療ミスに対する患者の訴え、さらには刑事・民事訴訟、ジャーナリズムの医師批判と針の筵に座らされている現状を具体的事例(事件)を通して述べている。

現在「週刊朝日」で久間十義の「生命徴候(バイタルサイン)あり」の連載中である。今週号に、心臓手術に失敗した患者を心カテーテルで緊急治療したが、容態が悪化し、遂に死亡する場面がでてくる。患者の家族の一人が「遅かれ早かれ早晩心臓がダメになるはずである。その早晩の1,2年をこの病院の先生がたがよってたかってウチの父からとりあげたじゃないですか」という医師に対する家族の身勝手な訴えに対して夜を徹して真剣に説明する医師の態度には頭が下がった。著者によると、最近患者の自己本位の訴えが増えていることを具体的な事例は通して説明している。



最近では医療現場に警察が立ち入り、善意の医療が結果次第で犯罪になり、また患者の権利意識は社会の後押しのために肥大化し多くの医師は口ごもることが多くなっているという。これは著者の医師としての自己弁護ではなく真剣な訴えになっている。というのは勤務医が厳しい勤務条件のなかで我慢して患者のために頑張ることを放棄しはじめている現状があるからだという。私が地元の公立医院の循環器科の医師が辞めていくことに怒ったが、その背景は単純でなかったことに気付いた。

現在、日本全国で勤務医が楽で安全で収入の多い開業医にシフトし始め、病院で医師が不足しており、小児救急の崩壊、産科診療の崩壊も進行しているという。著者はこの現象を「立ち去り型サボタージュ」と名づけ、この本のサブテーマにもなっている。かって中世・近世に農民が土地を捨てる「逃散」があったが、この医師のサボタージュはそこまでいかなくても社会からの攻撃に対する医師の消極的対抗手段ともいえなくないという。しかし私には対抗というより逃亡としか写らない医師もいるように思われる。

最後に著者は日本の医療の崩壊を防ぐためには医療事故・紛争に関して現状改革、医療への過剰な攻撃を抑制をあげ、さざまな提言をしている。これは日夜勤務医として頑張っている著者はじめ多くの医師の要求でもあることは理解できる。この本は医師の置かれている現状(特に勤務医の苦悩)を知る上に格好の著書であり多くのことを学ぶことができた。

しかし、私には当面する地方の医師不足をどするかという問題意識があり、この本は直接には答えていないが、大学医学部・医局の医師派遣問題、厚生労働省の医療行政に触れておりそこから問題解決の糸口をつかむことができる。特に辺地医療をどうするのか、一人暮らしの年寄りなど老人医療をどうするのか。患者の権利肥大はわかるにしても、弱者の医療問題についても著者の考えを聞きたいものである。

小松秀樹著  医療崩壊「立ち去り型サボタージュ」とは何か  朝日新聞社 2006年5月30日刊

「松本清張と昭和史」(書評)

松本清張の著書、「昭和史発掘」と「日本の黒い霧」を通して彼の昭和史観を分析した本である。「昭和史発掘」は、昭和前期に起きた20の事件を通して昭和の時代に迫っている。著者の保坂さんはその視点としてまず清張の恵まれなかった不遇な経歴から、「底辺の視線」からものを見ていることに注目している。清張はこれらの事件を収集した多くの資料に基づいて、歴史の中で生き抜いた人間、軍部が巨大な権力をを獲得し日本が誤った方向に進めていく方向を描き出したとしている。

特に興味を引くのは、アカデミズムからするとこのような在野の研究を基本的に認めない方向であったといわれる。つまり実証主義的検証をしているが、アカデミズムが持っている演繹的な史観から距離を置いていたからと保阪さんはいう。また清張は既成左翼の文化をになうという意識をもっていなかったからこちらからも警戒の目をもたれたようだ。私は戦後のアカデミズムや既成左翼の驕りと教条主義を感じてならない。しかし、証言、収集資料に迫真性や衝撃性や多くの読者を惹き付けたようだ。

特にこのの中で「2.26事件」に力を入れている。清張は現在の日本の保守政治が旧体制に回帰する懸念から、2・26事件の青年将校の歪んだ愛国主義、統制派の歪んだ高度国防国家構想を見抜き、これを実証することによって歴史の教訓にせよとの訴えであったという保阪さんの見方は納得できる。

後半は「日本の黒い霧」についての分析である。戦後占領期において下山・松川事件など奇怪な事件がおきているが、ここでは清張は「謀略」の視点からこれらの事件に迫っているのが特色である。しかし保阪さんは清張の謀略史観は説得に値する資料、論理があり他のものと一線を画していると見る。しかし彼の文学に親しんでいない人間からすると「日本の黒い霧」は余りにも都合のよい史実で繋ぎ合わせているという批判を保坂さんは否定しない。いずれにしても占領期に起きた事件は未だ謎の部分が多い。清張はそれに敢えて挑み占領期の魑魅魍魎を我々に提示したのは彼の功績である。

この本は昭和史の視点からの松本清張分析であるが、何故彼が敢えて昭和史の断片追求に挑んだのか?保坂さんは「彼が日本人の性格は過去を忘れ急角度にその性格が変わっていく面がある」という危機感があったからという指摘は重い。日本の現状を見るとき思い当たるフシが多い。過去の問い直し検証が今こそ必要である。

保阪正康著  松本清張と昭和史  平凡社新書  2006年5月刊