日月抄ー読書雑感 -2ページ目

ドラマと原作の間(あの夏、少年はいた)

昨日のNHKで「あの夏~60年の恋文~」という土曜ドラマがあった。もしやと思って見ると、昨年発行された「あの夏、少年がいた」をラマ化したものであった。この本は映像作家の岩佐寿弥氏が昭和和19年、奈良高等女子師範学校の4年生のときの教育自習生の教師川口(旧姓雪山)汐子先生をあるTVの映像で見つけ、当時強烈な印象を残して去った汐子先生に手紙を書いたことから二人の手紙のやり取りがはじまり、その往復書簡集である。

同時代小学校生活を送った私は岩佐少年の記憶の確かさと年上の女性教師に対する思慕の念の文章に感心し、「あの夏少年がいた(書評) を載せているので参照されたい。(2005年11月29日のブログ)

ドラマは実際に主人公の川口さん・お孫さんの大学生、岩佐さんが登場し語るドキュメンタリーの部分と、小学生時代の様子をドラマ化した部分に分かれ二人の交流を映像化している。

本で見た二人を描いていたイメージとそんなに違わない実像を拝見したが、ドラマ化された映像には、違和感をもつ場面があったことは否めない。私の体験によるともっと殺伐とした風景が戦争末期にあったように思う。確かに奈良の子供たちは裕福な家庭が多かったと思うが、私は食料難に陥り野山の雑草を追い求めて放浪したことを思い出す。

確かに川口さんがその「教生日誌」に子供の様子を詳細に書き記している様子は戦時体制の中では稀なことであり感心するが、その少年や教師の気持ちが映像化されるとなんとなくそのイメージが限定され美化されてしまう感じである。むしろ、二人の語り(ドキュメント)に真実があり、関心をもったのはそちらであった。

それにドラマのサブテーマ「60年目の恋文」にも抵抗を感じる。岩佐さんの手紙も確かに感傷的で年上の人に対する思慕の面があるが、あの戦争を教師、児童等が共通体験したことこそ貴重であり、またそこに共感する二人の姿に感動する。

私にとってこのような甘い思い出はない。終戦まもなく代用教員の先生に「日本は戦争に負けた、今までお前たちに軍歌(音楽の時間は殆ど軍歌)を沢山教えた。今日はその歌を全部歌って別れよう」と窓を閉めて大声で歌わせ、まもなく辞めていったK先生のことを強烈に覚えている。こんな体験はとてもドラマにはなるまい。

川口汐子/岩佐寿弥著  あの夏少年はいた  れんが書房新社 2005年9月

「季語集」を読む

俳句の鑑賞が好きであるが、自分では作ることができない。一番の障碍は「季語」があるということである。初心者にとっていちいち「季語集」をめくりながらの発句はどうも性にあわない。

今回俳人坪内稔典氏の「季語集」(岩波新書)を読む機会を得た。これは単なる季語集でなく、季語にまつわるエッセーを載せながら俳句の世界に誘うものである。坪内さんは「子供や青年は季節感を意識しないでほどに自然的であるほうがよい。自然のエネルギーに満ち満ちしていればよい、やがてそのエネルギーだけでは生きづらいくなったとき、季節に頼り、そして俳句を作ろうか、思ったりもする。」と誠に柔軟な考え方をしている。

だからこれも季語?と思うものもあり楽しく読める。例えば「あんパン」でこれは春の季語だそうである。1879年(明治8)4月木村屋(東京)が桜あんパン販売して以来のことだそうだ。意外と季語の誕生は単純である。また「原爆忌」なども国語辞典にはまだ載っていないが、俳句の世界だけに通用しており、毎年多くの俳人が原爆紀の俳句を作っているという。
原爆許すまじと蟹かつかつと瓦礫あゆむ  金子兜太(「少年」1955)

また坪内さんは彼が作った「睡蓮にちょっと寄りましょキスしましょ」という俳句が非難や抗議の渦に巻き込まれた話に考えさせられた。彼は「睡蓮を通して心身のこわばりをほぐさないかぎり、生きることの切実さに深く触れることができない」と考えての作品だったようであるが、「花鳥諷詠」を重んずる俳句の世界では容認されず未だこの「睡蓮事件」は尾をひいているという。伝統的な日本の俳句世界が生きているようだ。

この本では季語のエッセーの後の俳句を2句ほど紹介している。その中で自分の感性にふれたものを紹介してみたい。

春愁やインキの壷に蓋忘れ       森田 峠
客観の蛙飛んで主観の蛙鳴く      正岡子規
素潜りに似て青梅雨の森をゆく     松永典子
草刈の匂いをつけて握手かな      小川千子
便所より青空見えて啄木忌       寺山修司
愛されずして沖遠く泳ぐなり       藤田湘子
がんばるわなんて言うなよ草の花    坪内稔典
山々に囲まれて山眠りをり        茨木和生
もう戻れないマフラーをきつく巻く    黛まどか
枯草の大孤独居士ここに居る      永田耕衣

坪内稔典 季語集  岩波新書  2006年4 月刊

「9.11」5周年に思う

昨日9月11日はニュヨーク世界貿易センタービルやワシントン郊外の同時多発テロ発生から5年目を迎え数千人が集まって追悼式典が行われたことを今日に新聞は伝えている。特に遺族たちが「昨日のことのように悲しみや痛みを感じる。気持ちはまだあの日にある」という言葉に胸が痛む。

9・11後、テロ撲滅のために米国はまず、タリバンのいいるアフガニスタンを攻め、さらに大量兵器を隠匿、アルカイダと結びつがあるとしてイラクに戦争をしかけた。しかし破壊兵器はでてこず、「ワシントン9日共同」によると米上院情報特別委員会はブッシュ政権が指摘した旧フセイン政権とアルカイダの結びつきを完全否定し、米政権が掲げた「大義」を覆したと報じている。

さらに今日の毎日新聞はこの事件に関連して「米同時テロ:「中東民主化構想」は瓦解の危機に」の題で次のように述べている。

「米同時多発テロから5年の11日、ブッシュ米大統領は「テロとの戦い」の決意を新たにした。しかし、米国が対テロ戦争で撲滅を目指すイスラム武装勢力はアジアと中東の十字路でしぶとく生き残り、米国の軍事行動は住民の反発と過激思想の拡散を招いている。5年前、米の報復攻撃を受けたアフガニスタンのイスラム原理主義勢力タリバンは、パキスタンのアフガン国境地域で新たな支配圏を確立しつつある。イラク戦争をきっかけに中東では宗派間対立とテロが激化、ブッシュ政権が掲げる「中東民主化構想」は瓦解の危機に直面している。」



「テロリスト」につくか「自分の方」につくかの二分法の迫り方に誰もテロリストにつくというものはおるまい。しかしそれは「自由を守る」という旗印のもとに、「正義の戦争」(?)を促し、その結果、イラクやアフガニスタンの無辜の民を犠牲にしてしまった。。(アフガニスタン4000名、イラク4万人の民間人死亡)アメリカの著名な言語学者ノーム・チョムスキーは9.11勃発直後、「9.11アメリカに報復する資格がない」という著書を著している。これは雑誌、新聞等で彼が発言したものをまとめたものである。その中に次のような発言がある。

問い お考えではアフガニスタンを攻撃することが「テロに対する戦争」でしょうか?
チョムスキー アフガニスタンを「攻撃すればおそらく大勢の無辜の民が殺されるはずだ。・・・・罪のない民衆がほしいままに殺戮するのはテロリズムであり、テロに対する戦争でない。

問い 平和を取り戻すのに西側世界の市民何ができるのか。
チョムスキー それは市民が何を求めるかで決まる。おなじみのパターンによる暴力の環のエスカレーションを望むなら、米国に呼びかけビンラディンの罠に嵌まり込み無辜の民を大量虐殺すればよい・・・。

9・11後の中東はチョムスキーの危惧が現実のものになってしまった。中東の独裁政権に対するテロ摘発強化は民主化に逆行し、民衆の反米感情に拍車をかけてしまったようだ。

ノーム・チョムスキー著   9・11 アメリカに報復する資格はない。文芸春秋社2001年11月刊

カニとエビ

北方領土・貝殻島付近で8月16日朝、根室のカニかご漁船第31吉進丸がロシア国境警備庁に銃撃・拿捕され、1人が死亡、2人の乗組員が帰還(30日)したが、船長は依然として拘束されたままである。今日のニュースによると船長に対する予備審問が9月11日に国後島古釜布の地区裁判所で開かれることが決まったそうだ。

この付近で獲れるタラバガニは1.5キロで1万円以上もするというからかなりの高級品である。元々は日本の領土であるから密漁拿捕はおかしいが、外交交渉は領土返還にいたっていないからどうしようもない。

日本のカニ輸入高は9万9千トン(2005年)で水産物の種類では12位にあたるが、その80%は輸入である。輸入国はロシア、カナダ、米国、中国である。ちなみに水産物輸入の第1位は圧倒的にエビで23万3千トン、その90%が輸入でブラックタイガー、ホワイト、むきえび等はインドネシア、ベトナム、インド、中国、タイ、フィリピン、ミャンマー、など東南アジアが輸入先である。、伊勢海老は日本の特産物だと思っていたが、オーストラリア、インドに頼っている。なぜこうも日本人はカニやエビが好きなのであろうか。

やや少し前であるが村井吉敬現上智大教授が「エビと日本人」(1988年 岩波新書)を著し話題をよんだことがある。それによると日本人は世界で取引されるエビの4割を消費(世界一)、1人当りにすると1年間に約3キロ、かなり大型サイズのエビで換算して、だいたい100尾を食べている勘定になるという。

もともと日本人がエビが好きなのでなく、日本の貿易収支の関係で、貿易黒字を解消するための輸入商品として、割と高価なエビをたくさん買い入れるようになり、私たちの食卓に上る機会が増えたのだそうだ。まったく国益の結果であり日本のグルメ志向に拍車をかけたというわけである。現在でもわれわれの食卓にはエビフライ、天丼、寿司、などエビを材料とした食品があふれている。

村井さんはこの本で特にインドネシアの現状にふれ、天然エビの漁獲の他に、養殖のものが増えているという。その結果川岸に繁茂しているマングローブ林の破壊、地下水の枯渇など深刻な環境破壊が起こり、現在も進行中という。エビ、カニというわれわれの飽食ともいうべき食生活の陰に、密漁(?)しなければならない日本漁民の生活問題や東南アジアの環境問題が横たわっているのである。

村井吉敬著  エビと日本人  岩波新書  1988年4月刊

エイドリアン・ミッチェルの詩

岩波の「図書」に詩人アーサー・ビナード氏が「poetory talks」を毎月載せている。日本語の堪能なビーナードさんのこなれた訳詩を愉しみに読んでいる。今月号は英国の詩人エイドリアン・ミッチェルの短詩を紹介している。


Celia  Celia     Adrian  Mitchill

When I am sad and weary
When I think all hope has gone
When 1 walk along HIgh Holbon
I think of you with nothing on.

シーリア、いとしのシーリア

落ち込んだりくたびれたりしたとき
希望をすっかり見失ったとき、ひとり
ハイボールホーンを延々と歩くとき
ぼくはきみのことを思い浮かべるー
 す裸にして。

ビナードさんは「心底誰かにほれて大好きなその相手と一緒になると、ものの見方も変わり、みだらな空想も充実してくる。殺風景な幹線道路に沿ってとぼとぼ歩き、疲れた心の支えに、彼は恋人のシーリアを想う。二人は今、れっきとした夫婦だ。」と解説している。ビーナードさんの「with nothing on」=「すっ裸にして」の訳は、我々凡人にはとても思いつかない。

エイドリアン・ミッチェルを海外サイトで調べてみると、He has written large numbers of love poems and political poems.(彼は愛や政治的な詩を多く書いている。)と書かれ、上記のような詩ばかりでなく、ベトナム・イラク戦争に反対し平和を脅かすものへの嫌悪を詩に表現しているようだ。

その中に「To Whom It May Concern 」とベトナム戦争について書いた詩がある。最初の所だけ紹介する。(小生の拙訳)

To Whom It May Concern

I was run over by the truth one day.
Ever since the accident I've walked this way
So stick my legs in plaster
Tell me lies about Vietnam

  
拝啓

ある日、ある真実に気づかされた。
ばんそうこうを貼った足でこの道を歩いてきて
ある事件に遭遇して以来ずっと
ベトナムについての嘘を教えてくれ

詩は戦争について彼なりの感覚で平易な文章で深く捉えている。最後の部分に彼の本音が伺われる。

You put your bombers in, you put your conscience out,
You take the human being and you twist it all about
(あなた方は爆撃機を内におき、良心を外におく
 あなた方は人間を捕らえいたるところで歪めている。)

私はエイドリアン・ミッチェルという詩人を知ったことで満足している。

アーサー・ビナード作  看板倒れ  「図書」9月号  岩波書店 2006年9月刊

「殿様の通信簿」を読む

事実は小説より奇なりというが、歴史学者である著者が史実に基づいて江戸時代の大名の評価について書かれたもので誠に興味深い内容になっている。実は元禄時代に書かれた「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき))という本があり、公儀隠密が探索してきた諸大名の内情を幕府の高官がまとめたもので、著者に言わせるとこれが「殿様の通信簿」にあたるという。

この本では徳川光圀(水戸藩)、浅野内匠守と大石蔵之助(赤穂藩)、池田綱政(岡山藩)、前田利家、前田利常(加賀藩)内藤家長(延岡藩)本多作左衛門(家康家臣)が書かれている。

光圀はこの通信簿では評判がよいが、「ひそかに悪所に通い、酒宴遊興甚だし」と書かれている。これについて著者は女好きは間違いないが所謂遊郭に出入りして学芸の交流を図ったのではないか。つまり光圀とっては文化サロンであったわけである。学問があるが柔軟な思想の持ち主で、「光圀漫遊」もこのようような色街に出没する噂からでたものではないかという。光圀が「女好き」は例外でなくは他の殿様、浅野内匠守や池田綱政にもあてはまるようだ。浅野は「長矩女色を好むこと切なり」、綱政は「曹源公(綱政)の子七十人おわせし」と書かれている。特に綱政は「不学、文盲で女色に耽っている」の通信簿である。なぜこうも大名に好色漢が多いのか?世継のために側室がいたのは常識であるが、元禄以来の「平和ぼけ」と豊かな生活とも関係ありそうである。

これに対して加賀藩の利家、利常の行動について著者はかなりの紙数を割いている。つまり外様の加賀百万石はなぜ潰されなかったか?徳川対加賀の確執と権謀術数の内容は興味深い。利家は秀吉に仕え、息子の利長にも秀吉の子、秀頼を守れと厳命してしている。そのままでは前田家が取り潰しにあってしまう。ところがタイミングよく利長が死んでしまう。(自殺説あり)跡を継いだ利常(側室の子)は家康の大阪の陣で活躍し加賀は生き延びるという段取りである。利常は徳川に侮られないようにできるだけ改易にふれない程度に抵抗を試み、藩営を維持している。

しかし元禄以降の大名は一般的には生活が豊かになり贅沢が可能になり、いろんな文化が発達に貢献するが、安定性を求め官僚に政治をまかせてしまう。土芥寇讎記はその事情をよく記録している。幕末の激動に成すすべのなく右往左往する殿様たちが数多くいたことがそれまでの彼ら生活を通じてよくわかる。

磯田道史  殿様の通信簿   朝日新聞社  2006年6月刊

斎藤茂吉の戦争反省

歌人、斉藤茂吉の歌が新制中学校国語教科書で出てきたことを今でも覚えている。

死にたまう母

死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

特に最初の歌はその環境に近いところに住んでいた東北の田舎の少年の琴線に触れるもがあった。後にこれは「赤光」という歌集の一部であることを知た。(大正2年)

茂吉は終戦間じかに故郷に疎開し大石田の名家の離れに住んで、そこで詠んだ歌集が「白き山」である。「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」は有名な歌で私の好きな歌である。ところがその歌集の中に次のような歌がある。「軍閥ということさへも知らざりしわれをおもえば涙しながる」全体から見てかなり異質である。この歌については多くの批判がある。

茂吉は戦時中多くの戦争賛美の歌を作ったことで知られている。同じ山形県人の藤沢周平も茂吉の日記「敵がニュウブリテン島二上陸シタ。敵!クタバレ、これを打殺サズバ止マズ(昭和18年)を引用し、「茂吉はこういうふうに熱狂的な戦争賛美であり、協力者であった」と批判している。現在は全集からも戦争賛美の歌は削除し読むことができないが、その彼が「軍閥ということさへも知らない」というのはいかにも白々しくおかしいというのである。これは一説によると「戦犯指定」を免れるための自己弁護の歌ではないかというのである。

偉大な作家を貶す気持ちはさらさらないが、茂吉にも触れられたくない過去があったのである。同じ「白き山」のなかに「追放といふことになりみづからの滅ぶる歌を悲しみなむか」と開き直りともとれる歌がある。彼にとって「戦争賛美は自分だけ一人でやったのではない」という気持ちがあるのだろう。

ふと茂吉を思い出したのは、昨今の靖国参拝問題にちなんで、まやぞろ「戦争責任」の問題提起をする動きがでてきたからである。A級戦犯の責任はさておき、多くの文化人、ジャーナリストたちは戦争中の行動についてどんな反省をしたのか。

その意味ではその後ろめたさをもらした茂吉の弱さが理解できる。彼のいかにも東北人らしい愚直さを感じるのだが・・・。今日改めて彼の歌集を読んでみた。やはり優れた歌が多い。

斎藤茂吉著 斎藤茂吉歌集 岩波文庫  1973年9月刊

吉村昭氏の尊厳死

作家の吉村昭氏の死については、ブログで哀悼の意を捧げたが、吉村さんのお別れの会が24日開かれ、妻で作家の津村節子さんが発病から1年余りの闘病の様子を語った。それによると、吉村さんは昨春舌ガンを宣告され放射線治療を受け今年の2月に膵臓ガンがわかり全摘出手術を受け療養していたが,この7月に病状が悪化し、死の前日、点滴の管と首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートを自らの意思で引き抜いたという。吉村さんは「延命治療をしない」意向だったために、家族は治療を断念したという記事が載っていた。

私はこの記事を読んで吉村さんの著書「冷い夏、暑い夏」を思い出した。この本は吉村さんの私小説で、2歳違いの弟がガンにかかったときに、事実を弟に隠し通す決意する。周囲に対する厳重な口止め、弟に読ませるためのニセの日記まで用意する徹底ぶりである。

弟を愛し、よりよく死なせたいという彼の願いがひしひしと伝わってくる文章である。しかし、よく読むと吉村さんの心のゆれも伺われる。「不意に私の胸に、弟を死なせてやりたいと願いに近いものがかすめ過ぎた。・・・弟が激痛にあえいでいた頃、私は院長に延命より安楽を・・・と兄の立場をつたえたが、それは巷間、是非の論じられる安楽死とは本質的に異なる。私が安楽という言葉を口にしたのは、激痛をやわらげる方法を積極的に採用して欲しいと望んだからで、その方法をとることによって死が幾分早まってもやむを得ない。・・・・私が弟を死なせてやりたいと思うのは、安楽死という意味ではなく、あくまで自然死が条件である。」

弟のガンについてその「生」について「熱い」思いで看病しながら、一方では延命よりも苦痛軽減のために何かを施し、それで命がみじかくなってもやむをえないという「冷い」冷静さを吐露している。題名の「冷い夏」、熱い夏は象徴的な表現である。

これは吉村さんが若いときに肋骨を切断する激痛の結核手術の体験もからんでいるといわれる。今回の「延命治療をしない」という吉村さんの尊厳死は、この自己体験、弟の死の体験による彼の死生観からきたものではないかと思えてならない。彼の書いた「冷い夏、熱い夏」は、そのままこの熱い夏に亡くなった吉村さん自身のものになってしまった。

吉村昭著  冷たい夏 熱い夏 新潮文庫  1990年6月刊

信州に上医あり

終戦直後から農村地帯の集団検診普及などに努め「農村医学の父」と呼ばれた佐久総合病院名誉総長の若月俊一氏が22日午前5時5分、肺炎のため長野県佐久市の病院で死去した。96歳。

若月さんの波乱に富んだ生涯については同じ佐久病院勤務の医師で作家の南木佳士氏(なぎけいし、1889年「ダイヤモンドダスト」にて 第100回芥川賞を受賞)が「信州に上医ありー若月俊一と佐久病院ー」に書かれている。

戦前、東大医学部在学中、左翼運動にのめりこみ、治安維持法にひっかかり、無期停学。さらに医師になった東大分院時代、その著書のために同じく治安維持法違反で逮捕され1年間の拘留を受けている。終戦間じかの1945年3月、恩師のツテで現在の佐久病院に赴任している。当時の佐久病院は院長と女性医師がいただけの診療所だったといわれている。

若月さんは外科医として手術にあたり、さらにいろいろな企画を出して地域医療にあたり院長になって現在のような総合病院に発展させたのである。その歩みについては佐久総合病院のホームページである佐久総合病院の年表 で知ることができる。その中で1959年の長野県の八千穂村の全村健康管理の試みは画期的なことであり、現在の地方公共団体の集団検診など予防医療の先鞭をつけたものである。

しかしこれに対する病院内の若い医たちから批判を浴びている。医師たちへの労働強化、病院からの経費持ち出し、病院における医療内容の低下などについての若月さんへの病院経営批判である。



確かに的を突いた批判であるが、農村医療の低さを解決するために一緒にやってくれというと、その犠牲のなるのは嫌だと拒否したという。若月さんは医療矛盾をつくが、農民のために一緒に苦労しない医師に頭を痛めたようである。戦前の原体験から地域医療、特に農民一人一人の命を守ろうという若月さんの意図は若い医師には伝わらなかったのである。

今日の毎日新聞は若月さんの死についてふれ、さらに地域医療の現状と課題に迫っている。先日もブログに書いたが、全国の医療現場から地方病院勤務の厳しい診療科を避ける医師が増えているそうだ。「農村医療の経験を踏まえつつ都市と農村を一体とに捉えた医療が必要である。」(立身岩手大保健管理センター長)「住民が主役の医療、誰もが等しく受けられる質を担保した「肌着のような医療」こそ医療に土台だ」(日本農村医学会山根理事長)など関係者の叫びが聞こえるが、農村や離島など僻地での医師がいない状態の解消、専門医院と僻地を結ぶ診療支援の方法など国でも施策をあげているにもかかわらず、効果を挙げていないのが現状である。

「医学とは人々の幸せと命を守るものだ」と「実践医学」を訴えて農村医療に邁進した若月さんの活動は今曲がり角にきているいるようである。南木さんは「信州に上医あり」という題名は中国春秋時代の史書に「上医は国を医(いや)す」からとったという。彼は「しっかりとした知識と技術をもち患者の住む地域社会のさまざまな問題に取り組もうとするのが上医である」と述べているが、もはや地域(農村)医療は医師個人を越えた問題となっていることを若月さん死を通じて痛切に感じた次第である。

南木佳士著  信州に上医ありー若月俊一と佐久病院ー 岩波新書 1994年1月刊

ロシアの漁船襲撃・拿捕事件

北海道根室沖の北方領土・貝殻島付近で16日、日本のカニかご漁船「第31吉進丸がロシアの国境警備艇から銃撃を受け、拿捕された。乗組員の盛田光広さんが銃弾を受け、死亡した。その盛田さんのご遺体が昨日19日根室港に帰ってきた。

日本は千島列島の中の国後島・択捉島、色丹島、歯舞諸島は日本固有領土のと主張しているわけであるが、ロシアとの交渉はいまだ解決しない。この経緯については外務省のHP北方領土問題 に詳しい。

今回の事件は歯舞諸島の水晶島付近で操業中の蟹かご漁船がロシア国境警備局の警備艇により追跡され、貝殻島付近で銃撃・拿捕されたものである。元来この付近の海域での無許可操業は農水省や北海道当局も禁止しており、またカニ漁に関しては日本側には認められていなかったが、生活に追われた漁民の密猟が絶えない海域であったようだ。

それにしても、ロシア側の過剰な銃撃・拿捕には怒りを覚えるが、日本政府の普段の外交を怠ったツケが今回ってきた感じがする。政府はロシア当局に対し、北方領土は日本固有の領土であるとの前提に立って「日本領海内で起こった銃撃・拿捕事件であり、到底容認できない」と抗議しているが遅きに失した発言である。

この千島列島をめぐる日本ロシアの関係の歴史は古い。ロシア船ディアナ号は1811年国後南端の港に立ち寄り、船長ゴローニンが幕府に身柄を拘束される事件がおきている。それ以前にロシア船が日本船を襲ったりして警戒していた矢先ある。ゴローニンは2年間日本に幽囚されることになる。この2年間の生活を記録したのが「日本幽囚記」で、当時の貴重な北方史料になっている。

さてこのゴローニンを救出すべく同じデアナ号でやってきたのが、リコルド船長で水晶島から国後島へ航海中の高田屋嘉兵衛の観世丸を拿捕、彼を拉致する。このことについては司馬遼太郎の「菜の花の沖」に詳しい。結局リコルドは嘉兵衛の人柄を信じ、幕府との交渉に当たらせ、ゴローニンは無事帰国する。司馬は嘉兵衛の見事な民間外交を賞賛している。今回の事件で感じることは相手に抗議をすることも必要であるが、普段のお互いを信頼を獲得する国家間の信頼関係の構築である。最近の日本には相手を攻撃するだけの狭いナショナリズムが横行している感じがする。

ゴロヴィン著 井上満訳 日本幽囚記(上下)岩波文庫 1986年6月刊
司馬遼太郎著 菜の花の沖 (5巻、6巻) 新潮文庫  2000年9月刊