「季語集」を読む | 日月抄ー読書雑感

「季語集」を読む

俳句の鑑賞が好きであるが、自分では作ることができない。一番の障碍は「季語」があるということである。初心者にとっていちいち「季語集」をめくりながらの発句はどうも性にあわない。

今回俳人坪内稔典氏の「季語集」(岩波新書)を読む機会を得た。これは単なる季語集でなく、季語にまつわるエッセーを載せながら俳句の世界に誘うものである。坪内さんは「子供や青年は季節感を意識しないでほどに自然的であるほうがよい。自然のエネルギーに満ち満ちしていればよい、やがてそのエネルギーだけでは生きづらいくなったとき、季節に頼り、そして俳句を作ろうか、思ったりもする。」と誠に柔軟な考え方をしている。

だからこれも季語?と思うものもあり楽しく読める。例えば「あんパン」でこれは春の季語だそうである。1879年(明治8)4月木村屋(東京)が桜あんパン販売して以来のことだそうだ。意外と季語の誕生は単純である。また「原爆忌」なども国語辞典にはまだ載っていないが、俳句の世界だけに通用しており、毎年多くの俳人が原爆紀の俳句を作っているという。
原爆許すまじと蟹かつかつと瓦礫あゆむ  金子兜太(「少年」1955)

また坪内さんは彼が作った「睡蓮にちょっと寄りましょキスしましょ」という俳句が非難や抗議の渦に巻き込まれた話に考えさせられた。彼は「睡蓮を通して心身のこわばりをほぐさないかぎり、生きることの切実さに深く触れることができない」と考えての作品だったようであるが、「花鳥諷詠」を重んずる俳句の世界では容認されず未だこの「睡蓮事件」は尾をひいているという。伝統的な日本の俳句世界が生きているようだ。

この本では季語のエッセーの後の俳句を2句ほど紹介している。その中で自分の感性にふれたものを紹介してみたい。

春愁やインキの壷に蓋忘れ       森田 峠
客観の蛙飛んで主観の蛙鳴く      正岡子規
素潜りに似て青梅雨の森をゆく     松永典子
草刈の匂いをつけて握手かな      小川千子
便所より青空見えて啄木忌       寺山修司
愛されずして沖遠く泳ぐなり       藤田湘子
がんばるわなんて言うなよ草の花    坪内稔典
山々に囲まれて山眠りをり        茨木和生
もう戻れないマフラーをきつく巻く    黛まどか
枯草の大孤独居士ここに居る      永田耕衣

坪内稔典 季語集  岩波新書  2006年4 月刊