「殿様の通信簿」を読む | 日月抄ー読書雑感

「殿様の通信簿」を読む

事実は小説より奇なりというが、歴史学者である著者が史実に基づいて江戸時代の大名の評価について書かれたもので誠に興味深い内容になっている。実は元禄時代に書かれた「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき))という本があり、公儀隠密が探索してきた諸大名の内情を幕府の高官がまとめたもので、著者に言わせるとこれが「殿様の通信簿」にあたるという。

この本では徳川光圀(水戸藩)、浅野内匠守と大石蔵之助(赤穂藩)、池田綱政(岡山藩)、前田利家、前田利常(加賀藩)内藤家長(延岡藩)本多作左衛門(家康家臣)が書かれている。

光圀はこの通信簿では評判がよいが、「ひそかに悪所に通い、酒宴遊興甚だし」と書かれている。これについて著者は女好きは間違いないが所謂遊郭に出入りして学芸の交流を図ったのではないか。つまり光圀とっては文化サロンであったわけである。学問があるが柔軟な思想の持ち主で、「光圀漫遊」もこのようような色街に出没する噂からでたものではないかという。光圀が「女好き」は例外でなくは他の殿様、浅野内匠守や池田綱政にもあてはまるようだ。浅野は「長矩女色を好むこと切なり」、綱政は「曹源公(綱政)の子七十人おわせし」と書かれている。特に綱政は「不学、文盲で女色に耽っている」の通信簿である。なぜこうも大名に好色漢が多いのか?世継のために側室がいたのは常識であるが、元禄以来の「平和ぼけ」と豊かな生活とも関係ありそうである。

これに対して加賀藩の利家、利常の行動について著者はかなりの紙数を割いている。つまり外様の加賀百万石はなぜ潰されなかったか?徳川対加賀の確執と権謀術数の内容は興味深い。利家は秀吉に仕え、息子の利長にも秀吉の子、秀頼を守れと厳命してしている。そのままでは前田家が取り潰しにあってしまう。ところがタイミングよく利長が死んでしまう。(自殺説あり)跡を継いだ利常(側室の子)は家康の大阪の陣で活躍し加賀は生き延びるという段取りである。利常は徳川に侮られないようにできるだけ改易にふれない程度に抵抗を試み、藩営を維持している。

しかし元禄以降の大名は一般的には生活が豊かになり贅沢が可能になり、いろんな文化が発達に貢献するが、安定性を求め官僚に政治をまかせてしまう。土芥寇讎記はその事情をよく記録している。幕末の激動に成すすべのなく右往左往する殿様たちが数多くいたことがそれまでの彼ら生活を通じてよくわかる。

磯田道史  殿様の通信簿   朝日新聞社  2006年6月刊