解せない田原総一朗の発言 | 日月抄ー読書雑感

解せない田原総一朗の発言

週刊朝日に連載中の田原総一朗の「ギロン堂」(8月4日号)で「マスメデアは感情に訴えるだけでいいか」のテーマで、最近のマスメデアは「首相や閣僚について真っ向からその政策を取り上げて批判していては視聴率はとれない。結局揶揄してからかって感情的に非難しないと視聴者は乗ってこない」というある報道番組のプロデューサーの話を紹介して最近感情的に批判する番組が増えている(新聞も含めて)ことを指摘している。

そして少なからぬ国民は政権政党、権力者に不満を覚えている。「感情的な批判」は国民の不満のガス抜きにはなるだろう。だがそればかりやっていては国民が構造的、政策的な問題を考える機会を奪ってしまうことになる。言ってみれば国民を政治の現実から遠ざける役割を演じてしまうことになると」と、もっともらしい警告をしている。

「郵政民営化」の衆議員総選挙では、マスメデアは「感情的な訴え」で小泉劇場を演出し、そのお先棒をかついだ一人が田原氏ではなかったか?その彼が小泉首相への「感情的批判」はお気に召さないらしい。特にこのコラムでは小泉首相の訪米を例に出して、「日本の首相の訪米をアメリカメデアが好意的で歓迎したのに日本の少なからぬマスメデアは小泉首相のパフォーマンス(エルビス・プレスリー邸でのプレスリーの物まねなど)をまるで日本の恥であるかのように報じ、アメリカとまったく逆の情報を日本の国民に与えてしまった」とえらくご立腹の様子。

はたしてアメリカは小泉首相を本当に歓迎したのか。アメリカの情報提供で定評のあるブログ「暗いニュースリンク」 7月3日号に「恥を忘れた日本人:小泉首相の遠足外交に全米が仰天」 という記事をを載せている。(参照)



それによるとTIMSONLINの英タイムズ紙記者、リチャード・ロイド・パリー氏が「今後、数百万人のアメリカ人が小泉純一郎に対して抱く唯一の記憶は、エルビスを歌う不気味な日本人ということになるだろう」と、またニューヨークタイムズ紙の人気女性コラムニスト、モウリーン・ダウド氏が「東京から来た興奮しすぎの客人をブッシュ大統領が制止しようとする一幕もあったが、小泉は止まらなかった。」さらにワシントンポスト紙のピーター・ベイカー記者は「日本の首相である小泉純一郎を、今ではメンフィスの国家最重要観光地である場所に友人として連れて行くのは一興であった。しかし金曜日に、ウェーブのかかった髪を持つ日本の指導者がエルビスの歌を囁き始めると、大統領は一歩引いた」ことを紹介している。

田原氏の話と大分違うアメリカメデアの反響である。なぜ、「感情的批判」の例としてわざわざ小泉訪米を持ち出したのか?小泉首相擁護のためと勘ぐりたい内容である。「感情的な批判」を批判するのならば、その前提として真実の報道をすべきではないか。

原寿雄氏はその著書で、「新聞も放送も「権力の番犬」としての役割を果たそうとすれば常に権力者にとってうるさい存在でなければならない。非統治者=人民の立場に立って権力を監視するのがジャーナリズムの基本的役割なのに、しばしば吠える事も噛み付くことも忘れた番犬になってしまったり、いつもいねむりばかりして監視の役に立たない番犬もいる。時には「権力の応援団」になる番犬もいる。田原氏は誰に向かって吠え付き、噛み付いているのだろうか?

原寿雄著 ジャーナリズムの思想 岩波新書  1997年4月刊