原爆忌 | 日月抄ー読書雑感

原爆忌

6日の広島原爆記念式典に継いで今日9日長崎の記念式典が行われた。秋葉広島市長は「人類は今、すべての国が核兵器の奴隷となるか、自由となるかの岐路に立たされている」と指摘。核廃絶が進んでいない現状について「世界政治のリーダーたちは『核兵器が持つ唯一の役割は廃絶されることにある』との声を無視し続けている」と批判し、伊藤長崎市長も「米国、北朝鮮、パキスタン、イスラエル、イラン、インドの核保有国や核開発疑惑国を名指しし、核不拡散体制が崩壊の危機に直面していると指摘。「核兵器の威力に頼ろうとする国々は、被爆者をはじめ平和を願う人々の声に謙虚に耳を傾け、核軍縮と核不拡散に誠実に取り組むべきだ」と訴えた。それにくらべ小泉首相の挨拶は原稿の棒読みで誠意の感じられない乏しい内容であった。

原爆被害の悲惨さ、今でも原爆病に悩む人々が多くいることにやりきれない思いである。しかし私は「反戦平和」を声高に叫ぶ前に被爆者の声に真摯に耳を傾けることが必要であると思っている。今日井伏鱒二の「黒い雨」を読み返してみた。ここには閑間(しずま)重松、シゲ子夫妻と姪の矢須子(工場勤務)の被爆体験が日記を通して描かれている。

8月7日の矢須子の日記から「昨日、宇品工場合宿所へ移ることに決定したが、実行不可能のため中止。おじさんの言葉に従って古市へ避難。おばさんもご一緒。工場の事務所で、おじさん落涙数行。広島は焼けこげの街、灰の街、死の街、滅亡の街。累々たる死骸は、無言の非戦論。今日は工場の損害調査。」

8月7日の重松の日記から「護国神社の堤のわきに銃を立銃(たてつつ)にし持った歩哨が立っていた。近寄って見ると堤に背を持たせ目をぱっちり開いた死人の歩哨であった。襟の階級章をみると陸軍一等兵である。なんとなく品格のある顔だちだ。「あらキグチゴヘイのような」シゲ子はそういった。実はキグチゴヘイの故事を思い出していたところだが「こら、失言だぞ」とシゲ子を叱った。

この内容には文学者としての井伏鱒二の静かであるが戦争呪詛の叫びが聞こえる。そして原爆病に蝕まれていく姪矢須子へのいたわりがにじみ出ている。核廃絶、不拡散の政治的叫びも必要である。そのためにも次第に老齢化している被爆体験者の声を収録し、そして若い人々に伝えていく義務があるとこの本を読み返し強く感じたのである。

井伏鱒二著  黒い雨  新潮文庫  1970年8月刊