吉村昭氏の死を惜しむ | 日月抄ー読書雑感

吉村昭氏の死を惜しむ

作家家吉村昭氏が7月31日亡くなった。(79歳)。 吉村氏は」学生時代に肺結核で死と向き合った経験から文学を志し、66年に「星への旅」で太宰治賞。その後「戦艦武蔵」などで記録文学の新境地を開いたが、歴史小説を次々に手掛たことで知られている。特に史実に丹念に調べた小説には定評がある。

私は司馬遼太郎、藤沢周平、吉村昭の歴史小説が好きであるが、三者三様の特色があり、その中で確実な史料に基づいた吉村昭氏の小説にも惹かれる。読んだ作品を列記すると、長英逃亡、生麦事件、桜田門外の変 落日の宴、天狗争乱、ふぉん・しいほるとの娘、破獄、仮釈放、ニコライ遭難、敵討、関東大震災、アメリカ彦蔵、戦艦武蔵、ポーツマスの旗などで、熱烈な吉村ファンからすると少ないのかも知れない。

その中で特に忘れられないのは「長英逃亡」で、これは水沢藩出身の蘭学者長英が江戸の日本橋小伝馬町の座敷牢から脱獄し全国を逃亡したさまを描いたものである。吉村さんは歴史エッセー「史実を歩く」(文春新書1998年)でこの長英逃亡ののコースを訪ね歩き入念な調査をしたことを書いている。

このことについては小生のブログ「日月抄」の2003年12月18日の「長英の逃亡ルート」 にも書いているが、長英が故郷の母親に会いに行く場面がある。長英は新潟の直江津に滞在したことは確かであるが、阿賀野川を船でさかのぼり、「越後の国境沿いに待っていた鈴木忠吉の子分の手引きで奥州に入り大雪の北に向かった」とあり、水沢の手前の前沢で母親と会うことになる。この奥州に入ったコースは、この小説でも書かれておらずいつも疑問に思っていた。

吉村氏のの調査では長英は母親と会い、道を戻って米沢の地に入ったと「史実を歩く」に書いており、長英は水沢に入る(戻る)には奥羽山脈をどこかで縦断しなければならない。私は今では歴史的道路となってしまったが、現在の秋田県東成瀬村から岩手県胆沢町を経て水沢に抜けるコース(手倉越え)ではなかったかと今でも思っている。。吉村さんはこれについては何も書いていない。いつかお手紙を出して聞いてみたいと思ったが遂にできないでしまった。吉村氏の歴史小説は私に郷土の歴史的なロマンを膨らませてくれた。その死を惜しんでいる。

吉村昭著  長英逃亡 新潮文庫 1889年9月刊