太宰治「女生徒」の日記提供者 | 日月抄ー読書雑感

太宰治「女生徒」の日記提供者

太宰治の「女生徒」は昭和14年一女学生の日記風の作品で、少女独特の感情の揺れ、気まぐれ、焦燥感、大人への憧れと嫌悪などを描いた太宰の代表作の一つとも言われている。なおこの作品は未知の愛読者の女性から送られた日記をもとに書かれたものであることで知られている。

秋田魁新報の文化欄に(平成18年7月7・7日)に秋田県大館市の成田健氏が〃太宰治「女生徒」と秋田〃という題でこの事情について詳述している。これは東京の女生徒の昭和13年から8月8日の日記で、長らく太宰夫人の津島美知子さんは所蔵したものが平成18年青森県近代美術館に寄贈され、平成12年復刻公刊されている。太宰はこの日記に共感した部分に丸印をつけており、成田さんは「太宰は女生徒の清新な日記の記録に触れ、その心情に同化して一気に小説の筆を進めたように思う」と述べている。

実はこの日記の提供者は有明淑(しづ)という方で、両親と夫が秋田県出身である。淑は当時東京に住み、太宰の作品を愛読し19歳のときに小説の題材にしてほしいと日記を届けたという。「女生徒」単行本になった昭和14年末、太宰は有明宅を訪問しその後淑との手紙の交換が行われている。

有明淑の日記は4ヶ月に亘るものであるが、太宰の作品「女生徒」はある夏の一日の語りである。少女らしい生き生きとした文章が随所にでてくる。「鏡を覗くと、私の顔は、おや、と思うほど活き活きしている。顔は、他人だ。私自身の悲しさや苦しさや、そんな心持とは、全然関係なく、別個に自由に活きている。きょうは頬紅も、つけないのに、こんなに頬がぱっと赤くて、それに、唇も小さく赤く光って、可愛い。」などは日記からの引用と思われる。

また永井荷風の「墨東綺譚 」の感想がある。「墨東綺譚 読み返してみる。書かれてある事実は、決して厭な、汚いものではないのだ。けれども、ところどころ作者の気取りが目について、それがなんだか、やっぱり古い、たよりなさを感じさせるのだ。お年寄りのせいであろうか」とあるが、これは太宰そ自身の荷風観ではないか、文章の中に太宰の顔が見えるのも興味深い。

有明淑は昭和56年亡くなるが、義父の孫娘たちの語る有明淑の人物像は川端康成が「女生徒」を読んで表現した「可憐で魅力的で高貴である」の言葉にピッタリの女性であったと成田さんは述べている。


太宰治著   女生徒 (角川文庫 ) 1983/07出版 絶版