「ドミニカ移民訴訟」と「蒼氓」 | 日月抄ー読書雑感

「ドミニカ移民訴訟」と「蒼氓」

今から50年前、ドミニカへ移民した日本人のうち170人(原告)が東京地裁へその移民政策の杜撰さを糾弾して国に賠償請求をしていた訴訟にたいして移民が「物心両面にわたって幾多の辛苦を重ねてきた」と述べ、国の違法性を認めながら約31億円の賠償要求は「除斥期間(20年)を経過しており、請求の権利は消滅している」という判決を下した。

ドミニカ移住は1956年、日本政府がドミニカ政府の申し出を受け、「カリブ海の楽園で広大な優良農地が無償で手に入る」と宣伝し、56年から59年の間に10数回にわたり249家族、1319人ドミニカに渡った。ところが、実際は石ころばかり多く、塩が噴出し灌漑用水もなく農業に向かず、理想とは遠くかけ離れた荒れ放題の土地だったという。

移民たちは生活苦に喘ぎ、40年以上も救済を求める要求を続けたが政府はこれといった対策をとらず、ついに2000年国を相手取り賠償請求をの提訴をしたが、判決は国の責任を認めながら時効で賠償できないというのである。国の無責任さ、法律の無情さに心が痛む。これでは「棄民政策」といわれても仕方がない。

中南米への移住は今に始まったことでない。石川達三の「蒼氓(そうぼう)」(第1回芥川賞受賞作品)は1930年代のブラジル移民についてかかれたものである。この作品は第一部 蒼氓、第2部 南海航路、第3部 声無き民となっているが、第一部では出発までの収容所の生活、第2部ではブラジルまでの航海の様子、第3部でブラジル到着し移民生活の始まりを描いている。「蒼氓」は辞書を引くと「人民、一般の人」の意味であるが、「氓」そのものには移住民、外来人の意味もある。亡+民でなんとなく棄民のニアンスを感じる言葉でもあり、石川達三はこの意味も含めているのかもしれない。



その出発にあたっては『「ブラジルさいくからには俺あ、死んだ気に働ぐつもりだ。なあ麦原さん」「ンだない」彼は皺の寄った黒い顔を上げて答えた。「どうせ、日本に居だとて何ともなんねで、飢え死ぬもんなら。・・・なしゃ」「ンだンだ」と相手は応じた。「誰もな、楽に食べられる者だら、移民にゃあなんね。なあ」』という会話の場面がある。昭和10年代の農村の状態をよく表している。あまり期待しないでの移住であったことがわかる。

またたブラジル移民の生活について「ブラジルの生活は日本で想像したような理想な天国でもないし、無限の宝庫を開く開拓者の野心的生活もないし、また易々と大成できる所でもいことが大分わかった。健康地でもない楽天地でもない。労働の激しいこともわかったし、島流しであることもわかった。」と述べている。

しかしこの小説では国の棄民政策を知りながら、この地に住もうという移民たちに対して、石川は「ここはブラジル国の土でもなく日本の土でもない。ただ多勢の各国人の寄り集まって平等に平和に暮らす原始的な共同部落に過ぎなかった。大陸の大自然のなかに迷い込んだ人間たちが住む小さな洞穴ともいうべきもであった」と書き、そこに曙光を見出し生きていこうとする移民へ励ましを送っているようにもとれる記述に注目したい。

しかるに50年前のドミニカ移住は「カリブ海に浮ぶ南海の楽園」という政府の鳴るもの入りの移住政策である。それに踊った人々を云々するのは酷であるが、期待を膨らませての出発であった。それだけになんともやりきれない痛みを感じる。

石川達三著  蒼氓・日陰の村  新潮社  1972年10月刊