マッカーサーの無念 | 日月抄ー読書雑感

マッカーサーの無念

日新聞の「日曜くらぶ」に戦跡巡礼が連載中である。今日の題は「因縁の島コレヒドール」である(写真江成常夫、文荒井魏)コレヒドールはマニラ湾の入り口の水路の中央にある小さな島で1942年、日本軍が島の北側に位置するパターン半島から砲弾を打ち込み攻撃し、島を守っていた米軍マッカーサーがI shall returnの言葉を残し撤退したことで知られている。

角田房子氏の著書によると「この島の要塞は、 フィリピンがアメリカに割譲されてからは大規模な建設計画が進められ1914年に完成したが、当時の最強力の軍艦による海上からの攻撃に対抗する目的で設計されたもので,その後の軍用航空機の発達は,この要塞の防御力を著しく低下させた。またワシントン海軍条約が,要塞の増加と既設工事の改修を禁止したため,アメリカは,一部の改修しかできなかった。 こうしてコレヒドール要塞は,空と陸からの攻撃に弱いという欠点を持ったまま,日米開戦を迎え、バターン半島を日本軍に占領されてからは側面掩護を失い,砲爆撃に晒され最後に決死の第4師団上陸によって陥落した。」と書いている。

このような欠陥のある要塞であるがマッカーサーにとっては屈辱の撤退であったわけである。日本軍はその置き去りにした米比軍捕虜を約百キロメートルにわたって歩かせ、約一万七千人を死亡させたいわゆる「バターン死の行進」したと非難された。(移動手段とやむをえなかたという説あり)

新聞では新井さんは「マッカーサーがこの脱出にこだわりをみせ、日本の降伏調印式にコレヒドールで敗れた捕虜になったウェートライト将軍をともない最初に署名したマッカーサーがそのペンを彼にプレゼントしたこと。バターン死の行進の責任を理由に本間雅晴中将処刑されたのはこのこだわりと無関係でないかもしれないと」述べている。

また角田さんはその著書で本間雅晴中将の夫人が裁判の前にマッカサーとあったことを書いているが、そのことについて「助命を嘆願にいったのではない。本間家の子孫に、本間雅晴はなぜ戦犯として軍事法廷に立ったかを正確に知らせるため、裁判記録がほしかったのです。あれを読めば雅晴に罪のないことがわかり、子孫は決して肩身の狭い思いなどしないはず、と思いましたので」と述べている。

マッカーサーの無念が本間雅晴中将処刑なったのか、その真実は?

角田房子著  いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝 中公文庫 1989/03出版