日月抄ー読書雑感 -6ページ目

サイード・OUT OF PLACE

パレスチナ系アメリカ人として著名な学者、エドワード・サイードが亡くなって3年になる。彼の著書「オリエンタリズム」は、欧米の植民地主義的・帝国主義的支配の視点からの中東・アジアへの偏見的な見方を批判したもので大きな反響を呼んだ論文である。私も彼の著書「知識人とは何か」 を読み、彼の姿勢について知り感銘を受けたことは忘れられず、つたない感想を書いている。

先日、新聞の片隅にサイードの自伝を基に彼の生い立ち、生き方、そして何よりもパレスチナ難民の現状をルポした佐藤真の映画「エドワード・サイードOUT OF PLACE」 が東京アテネ・フランセで上映中であること、酒井啓子(イラク・中東研究者)×臼杵陽(パレスチナ・イスラエル現代史研究者)×佐藤真(映画監督)がこの映画に関連して「〈東洋系〉ユダヤ人とパレスチナ問題」について鼎談することを知り、それに「藤田嗣冶展」も開催されているので、農繁期にもかかわらず秋田の田舎の片隅から上京したことは周りから狂気の沙汰ととられかねない.。



この映画で佐藤は3つの撮影の柱を置いている。第1に複雑なエグザイル(故郷喪失)体験のあるサイードの痕跡をたどること。第2にサイードの多くの友人、知人から彼の記憶をたどること。第3に難民キャンプなど境界線上に住むパレスチナ人、イスラエルに住みアラビア語を話すミズラヒムと呼ばれるユダヤ人などの実態を描くことであると述べている。

以上の3点が交錯しながらこの映画は進むが、最初はその場面転換に戸惑いを覚えたのも事実である。サイードの思想や運動がパレスチナに向けられているのでその一貫性が画面から伺われるが、彼の生い立ち(古いフィルム)や住んだ場所からは、それが彼のパーソナリティー形成にどのような影響を与えたのかを捉えることが出来なかった。印象的にはかなり裕福な生活をしていたのだなと思った。しかし、彼の自伝の「ナレーション」から「父はズールに葬って欲しいという希望をわたしたちに伝えた。だが彼の遺志がかなえられることはなかった。・・わたしたちに土地を譲ってやろうという住民は一人もいなかった。彼は遺体を引き取るにはよそ者すぎると見なされていたのである。」と場面で彼のエグザイル体験を垣間見ることができ、まだが多くのそのような体験があったことを自分が読みきれなかったのではないかと思った。



また知人、友人へのインタビューはサイードを理解するには短かすぎた。友人ノーム・チョムスキーの話は彼が危険人物でいつも警護が必要であったとしかないのでアレと思った。みすず書房から映画と同じ題名の本がでているがその中に中野真紀子さんの訳で「サイードを語る」で全文があるのでこれを読んでサイードの全体像が理解できる。チョムスキーがサイードの他者へのまなざしを強調しているがそこがカットされていた。知人たちの考えの何をいれるか十分検討されたとは思うが、時間の関係上やむを得なかったのかもしれない。

第3点の難民キャンプのパレスチナ人の家族、ミズラヒムの家族の生活の様子はこの映画の圧巻でよくここまで踏み込むことが出来たと感心した。特にミズラヒムのカシーン家のアリ-ザが「アレッポでの生活がイスラム教徒もキリスト教徒も同じ庭で仲良く一緒に暮らしていた」と話していたことが印象的であった。そしてアレッポの食文化を受け継いでいること、他人をもてなす風習が続いていることを知ることができた。佐藤さんは鼎談でも、食べきれないほどの食べ物であったと述べていた。

日本においても異人を「まろうど」(マレビト、客人、賓客)として手厚くもてなす風習が日本古代からあったことが知られている。しかし、異人に対する忌避が戦国から江戸にかけて強くなり、日本民族の体質が確立した反面、内と外への異類への差別意識が確立していったとも言われている。この「まろうど」の視点から、アリーザの行動を考えると、彼女の中に異人への忌避の姿勢(日本人に対してばかりでなく)が薄く、ここにサイードの主張するバイナショナリズムの兆しがあるように感じたのは穿ちすぎか。


境界線上にすむエグザイル(故郷喪失者)を、サイードを通して、そして彼に共鳴する仲間を通して、さらに中東を住むパレスチナ人、ユダヤ人を通して描いたこの映画から、アイディデンティーを求める多様な考え方を認め、共に生きるその生活態度を知ることができた。佐藤さんは「声の共振がこの映画の核である」と述べているが、その共振を十分に感じた。その前日、「「生誕120年藤田嗣冶展」を見たが、彼も故郷喪失者といってよい。彼を異邦人としてフランスに追いやった日本人の偏見意識が、昨今の反アジア(特に中国、韓国)を叫ぶ風潮につながっているような気がしてならない。その意味で、この映画は日本人のナショナリズムの偏狭性への警鐘にもなっている.。


シグロ編 佐藤真・中野真紀子著 エドワードサイード OUT OF PLACE みすず書房 2006年4月刊

教育基本法論議

教育基本法改正案の審議が昨日から衆院で始まり、政府による改正案の趣旨説明と質疑が行われたという記事が載っていた。今日の毎日新聞社説は「教育基本法改正 必要性と緊急性が伝わらない」という論旨でこの改正について述べている。

東北の片隅に住む私にとっても全くその通りで、もっと緊急な生活問題があるのにと考えてしまう。「情報化、国際化、少子高齢化など教育をめぐる状況の変化やさまざまな課題が生じ、道徳心や自立心、公共の精神、国際社会の平和への寄与などが求められている。新しい時代の教育理念を明確にして国民の共通理解を図り、未来を切り開く教育の実現を目指す」が政府の提案理由らしいが、何も基本法をいじらなくても、それに対応した法令で十分な内容が多い。

その陰には何かあるのではないか。まして時の外務大臣が昨日「教育勅語など日本は昔から公徳心も涵養してきた、勤勉、向学心、向上心に加えてモラルがあったから、この国は治安もいい」と教育勅語の道徳的側面を評価する講演をぶちあげたというから、疑心暗鬼の念が消えない。

またこの改正には「愛国心」の問題が絡んでいる。今日の毎日新聞のコラム「余禄」では、この愛国心にふれ「愛国心といえば「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」という教育勅語の一節を思い出す年配の方もいよう」と述べているが、私にような老年にはついこのことを思ってしまう。

然し、「愛国心」の問題は今に始まったことではない。法学者渡辺洋三氏が20数年前に書いた著書の中に、昭和56年(1981年)版「防衛白書」の中で愛国心の重要性を訴え、さらに当時の文部省においても「国を守る気概」の教育の見直し、財界においても「愛国心」の提言などあったことが紹介されている。

我々にとって緊急性、必要性を感じないでいたこの改正が用意周到の長い時間をかけた内容も含んでいることに気付くのである。渡辺氏は「広範な国民の心をとらえるためには、戦前型の忠君愛国だけではだめてあるということから、最近では「守るべきものは何か」に焦点をあてて、日本文化の伝統、自由と民主主義、経済的繁栄、活力ある福祉、美しい郷土等色々並べ立て、要するに「日本は優れた国である」という新旧のナショナリズム賛歌と平行しながら、愛国心をもりあげようとしている」と述べている。20数年前の指摘が今でも生きている感じがしてならない。

渡辺洋三著 現代日本社会と民主主義  岩波新書   1982年4月刊

池澤夏樹氏の父・母

先日、作家池澤夏樹編で原條あき子全詩集「やがて麗しい五月が訪れ」が出ていることを知った。「原條あき子はぼくの母である。生きることは誓いにそむいて心を変えることだ。あるいは捨てられて恨むこと。人間はそこが魅力なのだと原條あき子はいう。」本の帯にあるように原條あき子(本名山下澄)は池澤夏樹の母親であり、父親は作家・福永武彦(1918―79)である。

あき子は学生時代、福永と知りあい、戦中から押韻定型詩を試みた、中村真一郎、加藤周一氏ら文学集団「マチネ・ポエティク」参加している。1943年結婚し、1945年に夏樹が生れ、1950年に離婚している。夏樹は母親の手で育てられ、父親については「親と子の関係というのは、どんな場合でも、普通に人が信じているほど平凡にして単純なものではない。すべての親子はそれぞれに波瀾を秘めている。ぼくの場合、実父との仲は波瀾を秘めるどころか、具体的に奇妙だった。父は最初から遙かに遠いところにいた。一緒に暮らしたのは一、二歳の時にほんの少し、あとは別れ別れになって、高校生になるまでこの父のことを知らなかったぐらいだ。その後、再会して行き来することになったが、共同の生活がないのだから生活感もまるでない」:『堀田善衛全集2』月報初出年月日:1993年6月 池澤夏樹)

マチネ・ポエティクは日本語による押韻詩の可能性を追求し、実際14行詩を制作したが、詩壇からの反応は薄かったといわれる。その後、中村、加藤、福永らは小説、評論の世界で活躍する。原條あき子は再婚しその後は池澤澄として80年の穏やか生活を送り、2002年生涯を閉じている。

鶴見俊輔氏は「池澤夏樹の日本語が自然科学の知識を駆使しながら、柔らかい印象を与えるのは、彼が立原道造についで定型押韻詩を日本語で実現した母親の原條あき子に、はじめて言葉を教わったからではないか、戦時中の閉ざされた結社の中で使われたマチネ・ポエティクの日本語が半世紀熟成されて、今日の日本に再び現われた。そう考えていいのではないか。」と述べている(岩波 図書5月号)

なつきよ おまえの髪には 森の朝
燦く木の葉の匂い 風の息吹
眠りさめたまつ毛は花の茎
揺れて耀いてひらく湖の深さ
(「To my darling Natsuki2」)原條あき子

池澤夏樹編  原條あき子詩集  やがて麗しい五月が訪れ 書肆山田:2004年12月刊

荷風と長太郎

岩波の書評誌「図書」5月号にに詩人(評論家)平出隆氏が「荷風ヴァーサス長太郎」の題で永井荷風と川崎長太郎について書いている。この名だたる私小説作家の奇妙な出会いがあったらしい。

荷風は1879年生まれ、長太郎は1901年生まれであるから、荷風が22歳年上である。長太郎は、20代の初め文学を志して上京。長太郎は荷風とであったのは「玉ノ井」駅辺りといっている。荷風が遊郭玉ノ井通いを書いた「墨東綺譚」を1937年に朝日新聞に連載しているから、そのころであると思われる。

いつごろ長太郎は荷風について書いたのか平出氏も明確に書いていないのでインターネットで調べてみると、ブログAntique Walker に「群像/昭和34年11月号]に書かれていることが分かったのでその内容を借用することにする

これは、まだ若かりし川崎が、玉の井や電車のなかで永井荷風にあったことを、これまた淡々と書いている。電車のなかであった時に川崎が、いたずら気からこれから荷風のあとを尾行し、玉の井でどんなことをするか逐一みてやろうということになる。そのためにはまずは荷風より後に電車を降りなければならない。川崎が降りる準備をしても、荷風は一向に腰をあげようとしない。しかしこれでは負けになる。川崎が荷風を注視すれども、テコでも動かぬといった感じ。どうするのか。結局、川崎が先に音を上げて飛び出してしまう。そのあとを荷風が立ち上がった。

これについては平出氏も同じ内容ことを紹介している。そして「近代の社会と文学における「群集」と「尾行」の意味をすでに知っている二人の作家は「終着」の玉ノ井駅に停止した電車の中で、どちらも動かない。動いたほうが負けだからである。荷風はさすがに、自分が見られる側に落ち込む危険を察知している。音を上げたのは青年のほうであった。」

しかし、長太郎は駅の空き地に立小便をしながら荷風の来るのを待ったというである。荷風はもはや作家として確立しているが、長太郎はこれから故郷に帰り小説を書こうとした時期である。この相似た作家の対峙の様子が面白い。

荷風の「墨東綺譚」、長太郎の「抹香町」といい、その文体は違うが、「日記の小説化」といわれた私小説である。このような私小説が出なくなって久しい。私小説は価値の混乱期に現出するとある評論家のべていたが、現代は安定した時期であろうか?

平出隆  荷風ヴァーサス長太郎  図書5月号 岩波書店 2006年5月

面白い地図帳

マスコミで出たがりの自民党Y議員がクイズ番組に出てイラクの位置を間違えたことが話題になったのは先日である。しかもかって参議院外交防衛委員長を勤めたことがあるとはあきれるばかりである。また昨日の外電は 米国の若者でイラクがどこにあるか分かっているのは37%だけの調査結果を発表している。これは全米地理協会の調査で、18歳から24歳までの510人を対象にして行われた。 国名が書かれていない中東の地図を示して、イラク、サウジアラビア、イスラエル、イランの4カ国の位置を答えさせる質問に対して、4カ国とも正しく答えたのはわずか14%。44%は1カ国も正解がなかった。と報告されている。(時事通信)

この全米地理協会は国際的に知られている、National Geographic を発行してしていることで知られている。このオンラインに今回の設問と詳しい結果Young Americans Geographically Illiterate, Survey Suggests が載っている。地理教育の専門家によると、米国の若者は米国以外の世界の国々に関心を示していないのではないかと述べている。

しかし米国に限らずこのような若者は日本にもいるのではないか。絶えず地図帳を開く習慣がいずこの国にもないようだ。それに地図帳そのものが無味乾燥で興味がわかないこともある。

先日WEB上で面白い地図帳を発見した。「バカ世界地図」 である。これは、 全世界参加型「バカ世界地図」プロジェクトとしてその国、地方の説明を書きこんでいくもので、その解説が実に面白い。例えば地図のイラクをクリックしてみよう。その説明1、イクラではない。 3、実はアメリカ領。など皮肉たっぷりの説明に笑ってしまう。

日本をクリックすると種々雑多なことが書かれ、教育基本法を重んずる「愛国心」論者は「バカ世界地図」を見て由々しき地図帳と柳眉を逆立てるかもしれない。しかし笑いながらこの地図を読むと、少なくともその国の位置は頭に入るはずである。なおこの地図は昨年著書としてとして出版されている。また著者の一刀さんについてはブログlWe [love] blog が参考になる。

一刀著 バカ世界地図 -全世界のバカが考えた脳内ワールドマップ- 出版:技術評論社/発行年月:2005.12

水俣病50年・石牟礼道子の言葉

「公害の原点」といわれる水俣病の公式確認から50年を迎えた5月1日午後、熊本県水俣市内に新たに建立された「水俣病慰霊の碑」前で、「水俣病犠牲者慰霊式」が行われた。患者・遺族や市民など約1300人(主催者発表)が参加し、犠牲者の冥福を祈った。(日経)しかし、各紙ともトップが「在日米軍再編」の日米合意が掲げられ、「水俣病50年」の記事はその下に扱われていた。

しかし、水俣病は未だ解決しない問題がある。2月末現在の認定患者は約2200人で、うち約1500人がすでに死亡。95年の政治解決などを受け、認定患者以外に約1万2000人が療養費支給などの公的救済制度の対象となっているが、認定患者を希望する人が未だ多くいる。審査会が認めなければ未認定患者でなければ補償は受けられない。認定基準のハードルは高く、申請を認められない人は約1万5000人にのぼっているという。16年10月、最高裁は行政の認定基準より緩やかな基準で被害を認め、損害賠償の支払いを命じたが、依然として国は従来の認定基準にしたがっている。

水俣病患者に寄り添ってきた作家・石牟礼道子さん(79歳)は、「国が基準を変えようとしないのは患者が死ぬまで待とうとしているのではないか。潜在患者がいるのにチッソに加勢して故意に患者を見捨ててきた。犯罪に手を貸している」。そして被害者のかたが「自分たちが(チッソを)親、子供、一族のかたきと思っていたが、今になれば人間をそういう目にあわせたくない。我々は一人も殺さなかった」と言った話を受けて、「身内を殺され、自分たちも殺されつつある患者さんの「一人も殺さない」という高度のモラル。これこそが水俣の発信である」と述べている。(毎日新聞)



石牟礼さんが「苦界浄土 わが水俣病」を世に出したのは昭和47年(1972年)のことである。一人の貧しい主婦であった彼女が水俣病の単なるルポルタージュを超えて、極限状況にいきる水俣の人々を悲しみ、怒りの叫びを自らの痛みとして書き綴った文学作品である。

文中にでてくる孫の杢太郎少年が患者である江津野家のお爺さんの言葉が胸に刺さる。「どっちみちわしゃ田んぼも畑も持たんとござすで海だけが、わが海とおなじようなもんでござすが、こんだのように水俣病のなんちゅうことの起これば海だけをたよりに生きてゆくわしどめにゃ行く先の心細でがざすばい。もうわしゃくたぶれた。あねさんかんにんしてきだっせ。わしゃもう寝る。」「あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華どこにゆけばあろうかい」(第3章「天の魚」より)

この作品を発掘した雑誌「熊本風土記」の編集者、渡辺京二氏はこの本がジャーナリズムに評判になり「患者を代弁する企業告発の怨念の書」と取られがちであるがそうではないという。上記の江津野家老人の言葉からわかるように、この水俣に暮らす人間の魂の叫びを素直に表現している。現実から拒まれた人間が必然的に幻想せざるを得ない美しさであるともいう。

石牟礼さんは水俣病患者とつかず離れず過ごしてきた。「一人も殺さない」という高度のモラル。これこそが水俣の発信である」という石牟礼さんの50年目の言葉は我々に重く圧し掛かる。

石牟礼道子著  苦界浄土 わが水俣病  講談社文庫  1972年12月刊

ゴヤはなぜ魔女の絵を描いたか?



現在東京都美術館で「プラド美術館展」 が開かれている。その中でゴヤの作品7点が含まれているが、特に「魔女の飛翔」が話題になっているようである。今日のNHK新美術館もこの作品をとりあげ、彼が何故魔女を描いたのかについて「ゴヤが最も初期に描いた魔女の絵の1枚「魔女の飛翔」。以後、多くの魔女を描き続けた。社会風刺を刻んだ銅版画集「ロス・カプリチョス」では、さまざまな姿の魔女をキャラクターに起用。そして最晩年、スペインの動乱の時代を体験したゴヤが、その境地を描いた「黒い絵」にも登場する。しかしその魔女は恐ろしい姿へと変ぼうしていた。ゴヤが魔女に託した思いをたどる。」という問題意識でその意図に迫っている。

ゴヤは彼を最大のパトロンであったたオスナー公爵家のために6枚の魔女の絵を描いている。その一枚が「魔女の飛翔」で空中を浮遊する上半身裸の魔女が人間の屍を運び、その下を頭から布をかぶった男が驢馬を従えて歩いている姿である。すでに宮廷画家になったゴヤがこのような魔女を描くようになったのは「マドリード画帖」にも見られる。このことについてNHKの解説では、彼自身の聴覚の喪失、多くの子どもを失くす、それに1610年のログリニォ異端審問で魔女裁判が行われており、それを知った影響ではないかと述べていた。

ゴヤの内面に迫った堀田善衛著「ゴヤ」は、このことについてゴヤの活躍した18世紀のスペインはこの魔女裁判には殆ど関心がなく、ゴヤたちの魔女は「一面では迷信批判、他の面ではその絵画的面白さと人間狂気に対する批評としての応用、想像的に翼を与えるものとして積極性などがまじっているのが大部分」で、当初はそんなに大上段に描いたものではないことを指摘している。



しかし、「ロス・カプリチョス」(気まぐれ)になるとその内容がさらに厳しくなる。この銅版画に刻まれた彼自身のコメントは「理性に見放された想像力はありうべきもない怪を生じせしめる。理性と合体せしめられたならば、想像力はあらゆる芸術の母となり、その驚異の源泉となる」と述べているように、魔女の絵を通して風俗、迷信、政治、教会と批判の目を向けている。

堀田氏はその経緯を『「社会の過誤」「狂態と愚行」「偏見と欺瞞」「無知と利害」しかし道学者ぶって一方的に自分の方から酷評を加えているのではない。彼自身アラゴンの荒野から攻め上って現在の地位(首席宮廷画家)に至るまでいったいどれほどの策略や狂態、愚行、偏見、欺瞞等々を働き、何人の足を引っ張ったことか、振り返ってみればカッコの対話(絵の中の対話)はすべて自分自身へのものである。』とゴヤの自己批判でもあることも指摘している。しかし彼は267部刷って27部売り、残り240部を12日間で引き揚げている。自分に向けられる批判を恐れてだろうか?

そして最晩年の7枚の「黒い絵」である。自宅の壁に描いたのである。堀田氏はここでも「彼の想像力は・・自然や事件に対してではなく・・・おのれ自身に責任を負うことになる。しかしその自由と責任で描き出したものは画家自身の孤独、聾者、多くの子を死なせたこと、病苦、老齢、彼に独自な宿命的恐怖、死等でその他のものではなったことは注目しなければならない。」述べている。単なる体制批判でなくゴヤ自身の生き方が魔女の絵に向かったといえる。そのあまりにも人間的な生き方に息を飲む。NHK番組は魔女の絵からゴヤの光と影を描き出そうとした発想はよいが堀田のようにゴヤの内面までせまることができなかったのが惜しまれる。

堀田善衛著  ゴヤ(全4巻)  朝日文芸文庫   1994年9月刊

ある日本共産党批判

「週刊朝日」 (5月5日~12日合併号)は[赤い共産党の黒い内幕]という題で、03年、日本共産党役員をセクハラ事件で罷免され、参議院議員を辞職。昨年7月離党した筆坂秀世氏へのインタビューを載せている。筆坂氏は先日、新潮社から「日本共産党」を出版しその内情を暴露したばかりである。この内容については不破哲三氏が赤旗で「筆坂秀世氏の本を読んで」 という題で批判を加えている。

私はこのような暴露物の本は嫌いで読む気はしないが、週刊朝日のインタビューを読み、セクハラ問題の真相、処分問題、不破氏の絶対的権力、秘書問題などその次元の低い内容にうんざりしてしまった。

私は決して共産党を全面的に支持するものではなく、むしろ常に誤謬性のない考えや、反対意見に耳を貸そうとしない態度にも疑問をもっている。かって日本共産党を離党した安東仁兵衛を思い出し、彼の書いた「戦後日本共産党私記」を書架から取り出し読み返してみた。

安東は学生時代、「日本共産党東大細胞」のキャップとして活躍した人物である。この本を読むと安東は独自性を発揮し必ずしも党中央に従わなかったことが分かる。結局、安東はイタリアのトリアッチが唱えた構造改革を参考にした民主主義的社会主義革命路線を標榜するが、修正主義の批判を受け、一枚岩を標榜する党中央から受け入れらず離党してしまう。

安東はこの本でそのいきさつを理論対立を中心に描いている。そこには共産党中央の体質批判もあるが、彼の政治的信念や愚直に生きた姿が描かれている。彼は離党後も「アンジン」の名前で親しまれその理論実現に生涯をかけている。この本を著したのも離党後10年を経てからのことである。「私記」とは言いながら戦後日本の共産党史の内容になっている。

しかるに筆坂氏は離党1年も経っていないのに「日本共産党」の題名で書物を著している。その内容からしてまさに私記というべきもではないか。26日の赤旗は『週刊朝日』編集子の不見識」 を載せている。日本共産党を擁護する気持ちはないが、セクハラ問題を冤罪という筆坂氏に無理があり、なぜ週刊朝日がこれを載せたのか疑問が残る。

安東仁兵衛著  戦後日本共産党私記  文春文庫1995年5月刊

チェルノブイリ原発事故20周年に寄せて

(写真はウクライナ・スラヴティチ市の記念式典 AFPによる)


今日の各紙はウクライナ(旧ソ連)のチェルノブイリ原子力発電所の事故から20周年を迎えた26日未明、首都キエフ市のチェルノブイリ教会で、事故による死者を悼む式典があり、原発に近接する強制避難区域からキエフ市内に移住した住民ら数百人が、手に灯を持ち祈りをささげ、献花したと報じている。

1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発4号機で試験運転中に原子炉が爆発し、火災が発生。大量の放射性物質が大気中に放出された。欧州全域が汚染され、事故処理の従事者や周辺住民が被ばく、子どもに甲状腺がんが発生した。700万人以上が被曝。最終的な死者数はWHOの予測で9千人といわれるが、調査期間によってもっと多い統計を出しているところもある。特にベラルーシなど、チェルノブイリ原発の近接地域で子どもの甲状腺がんが多発。最近では大人にも甲状腺がんが増加しているという。

写真家本橋成一氏が、1991年、事故後5年を経たチェルノブイリ及びその被災地に通い始め、95年そこに暮らす人々を撮影した「無限抱擁」、97年映画「ナージャの村」公開、98年写真展「ナージャの村」で第17回土門拳賞受賞したことは記憶に新しい。

特にベラルーシ共和国のゴメリ州ドゥジチ村村中心に撮った「ナージャの村」はそこに移動をせずに暮らしている農民と強制移住されるさまが描かれている。特に愛くるしい小学生のナージャの写真が印象的である。このゴメリ州の人口はベラルーシ共和国の12%を占め、甲状腺ガンを患っている約53%がこの州の人たち言われている。日本にも小学生が治療に訪れた記事が載っている。

学校が・・・・。
見てごらん、すばらしい小川だよ。

学校が・・・・。
小さい。
ふるさとだね。
草木が生い茂っている。
ここ。

今日。
引っ越すの。
ええ。

あ、学校が・・・。

ナージャ&スペーター

本橋成一が写真を撮ったのは1997年。あれから8年。ナージャは既に中学生か高校生になっているはずである。無事に生活しているだろうか?この日ベラルーシは「欧州最後の独裁者」と批判されながら3月の大統領選で3選されたルカシェンコ大統領の退陣を求めて、野党支持者らがデモ行進を行うという。
本橋成一著  ナージャの村  平凡社 1998年6月刊

東北農民兵士と遺族たち

先日知人で地元の「農を語る会」の代表岩井川さんから、「遠い日の戦争―農民兵士と遺族たち」の小冊子を戴いた。これは秋田県羽後町貝沢地区を中心にした9家族が家族(夫、息子)を戦場に送り、今まで誰にも言わず(言えず)胸に秘めてきた遺族の声を地元に住み長い間農民運動に携わってき高橋良蔵さんが30年前からあたためてきたテーマを「農を語る会」のメンバーが聞き取りメモをしたものをまとめたものである。証言した人たちの多くは他界しており、ぎりぎりのまとめであったという。

東北の農民兵士と残された家族の記録については岩手の菊池敬一・大牟羅良編の「あの人は帰ってこなかった」(岩波新書1964年)や岩手県農村文化懇談会編『戦没農民兵士の手紙』(岩波新書1961))があるが、もう30年も経っており忘れ去られようとした。秋田の「農を語る会」がわずか9人であるが、その家族の苦しみを記録しまとめた意義は大きい。

その記録は慟哭の叫びであり目頭を熱くするものものが多い。チヨさんは6人の子どものうち最初の4人は母体の栄養不良で1年以内に早死にさせている。ようやく5番目と6番目の子どもを3反歩を田んぼを耕し日雇いをしながら子どもを育てた。一番おいしい食べ物は雄物川の水をご飯にかけて食べる「水かけまま(飯」だったという。

長男の真一さんが召集され、チヨさんは息子が戦場に向かわないうちに青森の大湊駐屯地に面会に行く。家に来た住所を手がかりに夕暮れ兵舎を見つけ駆け寄ると、一人の兵士の人影を見つけ、それが息子だと気付く。大声で「シーエチ(真一)アバ(母)だぁ」と叫ぶが面会不許可。真一さんはその2日後北千島海峡の戦場に赴き1ヵ月後戦死。18歳であった。

「シーエチ、アバだぁ」と秋田弁丸出しで叫んだチヨさんの言葉は、戦場に行くのを励ますものではなく、子を思う親の叫びである。彼女は息子の戦死について「いくら貧乏でも、三度の飯を食わぬことはない。しかし、息子をお国にあずけて死なせてしまった。ああ、あと終わりだ。それが全部だ。」息子の戦死を悔やみ、怒りを訴えたという。

「国にあずけて死なせた」という叫びは国の戦争責任への糾弾でもある。あの戦争は正義の戦争であったという妄言はさておき、戦争に導いた者たちの戦争責任も曖昧になりつつある。そして戦争の悲しみを直接知っている証言者も減っている現在我々は何をすべきか。この小冊子を読みながらすっかり考え込んでしまった。、題名が「遠い日の戦争」となっているが、遠い日の思い出に終わらせず、現在の問題として考えるべき内容をもっているのではないか。

 湯沢・雄勝農を語る会編・発行   遠い日の戦争―農民兵士と遺族たち 2006年2月刊