日月抄ー読書雑感 -7ページ目

郷土の歴史を読む

郷土の歴史本出版の一部の執筆を頼まれ史料を収集中である。担当が古代中世で史料に乏しく苦労している。現在、太閤検地のころの郷土の様子を調べている。当時わが郷土には「小野寺氏」が大きな勢力があったが、秀吉の命をうけ越後にいた上杉景勝の家臣色部長真(いろべながまさ)が天長18年(1590年)がこの地に乗り込んできて検地を行っている。

その様子を「中世の小野寺氏」史料集を通して読んでいるが、歴史小説を読むより面白い。秀吉は天正18年「出羽の国検地条々」を命じているが、田を上,中、下に分けて検地をしている。不満な城主、百姓は「一人も不残置なてきり二可申付候」と述べているのが目を惹く。「なてきり」とは「撫で斬り」即ち首をはねることである。豊臣政権の権力がこの東北の片隅の秋田南部まで及んでいたことがわかる。

そして検地により城主に朱印状を渡しているが、ちゃっかり豊臣の蔵入地(直轄地)を確保している。全国で200万石あったといわれる。検地は年貢を納める基準の他に地方の土地を確保(搾取)の意味もあったわけである。

さきほどあげた色部長真の記録(色部文書、出羽の国の検地をしる一級史料))の中につぎにような記録がある。

出羽の国仙北郡蔵入地引渡覚写   最上への渡分

一、高寺  一、田代  一、湯沢  一、今泉 一、深ほり 一、岩崎(我が郷土)  一、、関口  一、松岡 一、八口内  一、あひ川

以上の地名は私の近隣の村の地名である。つまり太閤検地により当時この地を支配していた小野寺氏(当時義道)の土地を自分の蔵入地にしたが、これをこの地に進出を企てていた山形の最上義光に移管したいうのである。小野寺氏にとっては自分の土地が敵対ていた最上に土地が移動したわけで、その屈辱はいかばかりとこの平凡な史料の背後からうかがえるのである。

ところが、最上に土地が移ったのでここに住んでいた農民はこの地を捨てて横手に住んでいた小野寺義道の領内に逃げ出すことになる。山形留守居役の氏家尾張守は色部長真に呼び戻してほしいと手紙を出している。色部は中に挟まって苦しんだようであるが3月には任務を終えて帰ってしまう。その後我が郷土はどうなったのだろうか。史料を読みながらはるか中世の我が郷土の様子を想像するのもまた楽しである

小野寺彦次郎編  中世の小野寺氏 その伝承と歴史  創栄出版   1993年12月限定300部

寮歌を懐かしむ

ハチ公物語」「遠き落日」「月光の夏」、最近では「秩父一揆」を描いた「草の乱」など社会派の映画監督である神山征二郎 氏が25作目として「北辰斜めにさすところ」の題で旧制高校の青春群像の映画を製作することが新聞記事に載っていた。

「北辰斜めにさすところ」 は旧制第七高等学校(現鹿児島大学)の寮歌である。私の学生時代は既に旧制高校はなくなっていたが、学生寮はそのままで残っており、よく寮歌を歌ったものである。私がいた旧制二高の「明善寮」では入寮と同時にまず「山紫に水清き」 を覚えることから始まった。その後一高寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」 を覚えたが、旧制五高(熊本大学)の「武夫原頭に」 と旧制七高の寮歌を寮の中で酒を酌み交わし歌ったことを覚えている。この「北辰斜めにさすところ」は短調で物悲しい曲である。

旧制高校に入学できるのは当時のエリートである。その歌詞は自負、悲憤慷慨に満ち戦後も「寮歌祭」など昔を偲ぶ人たちも絶えないが、そのエリート臭さが鼻持ならないという人もいるのはもっともな事である。

今回の映画はオフィシャル・サイト「北辰ななめにさすところ」 制作委員会によると「自由と自信を高らかに掲げ人生を語り合った寮友たちが戦争を体験し、特に軍医であった主人公が同郷の友を救えなかったことに自責と悔悟の念にかられる激動の昭和を描いた物語である。」と述べている。神山監督は単なる寮歌への郷愁として描かないのはさすがといえる。

過去に「日本寮歌集」が発行されたが既に絶版であった。寮歌そのものは過去の遺物であることは間違いないのだが、私自身、昭和30年代、貧乏学生で寮という閉鎖社会の中でくすぶり、歌うのは寮歌だけという時代でその意味で懐かしい。
                                     

日本寮歌集編集委員会  日本寮歌集 日本寮歌振興会 (国書刊行会) 1991/10出版

[1968年」は何があったか

フランスのシラク大統領は10日、ドビルパン首相との会談後、若者の解雇を容易にするとして強い反対運動が起きていたCPEの撤回を発表した。このCPEは青年雇用を促進するためとして、労働者を新規に雇用する場合、企業に社会保障負担分の3年間免除などの特典を与える一方、自由に解雇できる「見習い期間」を通常1―3カ月から2年間に延長、26歳未満の青年に適用するもので、「不安定雇用を拡大する」として労組や学生団体は撤回を求めていた。この反CPE運動はデモ参加者が300万人に達する記録的な規模となり、1968年の「パリの5月革命」以来のものになったと新聞は報じている。

1968年の「パリ5月革命」とは、自由と平等と自治を掲げ、フランスのパリで、1千万人の労働者・学生がベトナム戦争反対、ソ連の圧制反対、大学改革を求めてゼネストを行なったものである。この年は日本でも東大を中心に全共闘が大学の改革を求めて過激な運動を起こした年でもある。既に仕事についていた私にとって世界・日本の若者の正義感に燃えた闘争をまぶしく傍観していた記憶がある。

この1968年は国際的にいろいろな事件や運動が重なったことについて、最近アメリカを代表する知識人のひとりで、シャープな歴史解釈と独自の視点には定評があるコラムニストとして著名なニューヨーク在住のカーランスキー,マークが「1968―世界が揺れた年」という本を著したことを知った。

1968年―世界中の普通の人々が、時を同じくして体制に反対する行動を起こした年だった。ベトナム反戦運動、公民権運動の高まりとキング牧師の暗殺、パリの「五月革命」、プラハの春。学生は通りに出て戦車の前に身を投げ出すなど世界各国の民衆にとって激動の年であったが、ベトナムでは最悪の戦死者を出し、キング牧師もロバート・ケネディも暗殺され、プラハの春は踏みにじられた年でもあったとこの本は紹介している。

将にそこに怒れる若者の姿があった。その人たちは現在日本では団塊の世代として定年を迎えようとしている。私はその前の世代であるがまぶしく見えた彼らには最早そのよう意気がみられない気がする。また何事にも怒らず体制に順応する若者が増えているのも気になる。こんなこというと老いぼれの戯言と冷笑されるだけかもしれない。

カーランスキー,マーク著  来住道子訳 1968―世界が揺れた年〈前・後編〉ソニー・マガジンズ (2006-03-10出版)

清張の「霧の旗」を思い出す

昼ごろ車を運転していたら、秋田県弁護士会が「電話による無料法律相談」で「相続・遺言110番の実施」をしているラジオのニュースが流れた。現在地区の人権擁護委員をやっているが時々これと同じ相談をもちかけられる。弁護士さんや公証役場の公証人に相談するようにというが、必ずいくら費用がかかるかと尋ねられる。どうも敷居が高くて行きにくいようだ。まして普通の民事・刑事裁判ではかなり経費がかかるという懸念が先にたってしまう。

ふと、松本清張の小説「霧の旗」を思い出した。この小説の主人公、柳田桐子が、兄の殺人容疑の弁護を頼んだ高名な弁護士大塚欽三に弁護料が高いことを理由に断わられることからこの物語が始まる。桐子はいう「兄は助からないかもしれません。80万円あったら助かったかもしれませんが、不幸でした。貧乏人は裁判にも絶望しなければならないことがよく分かりましたわ。」と電話で事務員に告げる場面がある。結局兄は有罪で獄死するが、ここから桐子の復讐劇が始まり、後悔、あやまる大塚弁護士をとことんまで追い詰め彼の社会的地位を奈落の底に突き落とす。

ここで考えるのは大塚弁護士は所謂悪徳弁護士ではない。彼は密かにこの事件を調べ冤罪であることにも気付き、さらに恋人の女性を殺人容疑を救う(証拠は桐子が握っている)ために献身的な努力をしている。むしろ善意の人間である。桐子の復讐には理不尽な側面もある。

それにも関わらず、松本清張は主人公に最後まで徹底的に復讐させている。これは、主人公を通して現在の裁判制度や弁護制度への警鐘を彼は投げかけたのかもしれない。弁護士に頼むと金がかかるという神話(?)は今でも生きている。私は秋田県弁護士会が無料で電話相談をしているというニュースを聞き、弁護士さんの姿勢も変わってきていることを感じたのであった。まして人権擁護委員の中に弁護士さんもおり、その姿勢にはいつも学んでいる。

4月10日、日本司法センター「法テラス」 が設立された。この10月から業務を開始するそうである。これは「誰に相談してよいかわからない」「専門家に相談したいけどお金がない」などに日常生活の悩み相談の窓口だそうである。これだと「霧の旗」の桐子がわざわざ九州から東京の弁護士へ頼みに行かなくても相談がでそうである。

松本清張著    霧の旗    新潮文庫  1981年10月刊

N響指揮者アシュケナージの憂い

4月9日の「N響アワー」は司会者が高橋美鈴アナに代わり作曲家・池辺晋一郎との組み合わせになった。当日はウラディーミル・アシュケナージ指揮・NHK交響楽団でプロメテウス (火の詩)作品60 (スクリャービン)と交響曲 第6番 ロ短調 作品74 「悲愴」から (チャイコフスキー)が演奏された。

アシュケナージの指揮を生で聞いたのは2002年11月サントリー・ホールで、チェコ・フィルのスメタナ作曲「わが祖国」の演奏である。アシュケナージの指揮は彼のピアノ演奏と違い、なんとなくぎこちなくやや違和感を覚えたが、その後N響の指揮者に迎えられ何回となくTV等で聞くにつけそれも感じなくなった。

1937年旧ソ連のゴーリキ生まれ。モスクワ音楽院で学び,1955年のショパン国際ピアノ・コンクールで第2位。1962年のチャイコフスキー国際音楽コンクールのピアノ部門で,ジョン・オグドンと第1位を分け合いピアニストとしてはあまりにも有名である。1960年に旧ソ連からロンドンへ亡命し,本格的に指揮活動を始めるようになるのは1970年代といわれている。

旧ソ連体制の芸術に対する国家の無知、無理解、横暴さ、理不尽さについてはショスタコーヴィチが証言している。アシュケナージもその体制に絶えられなかったこともあろうが、アイスランド出身の若い女流ピアニストへの愛を貫いて祖国ソ連を捨てたといわれる。

このことについて詩人清岡卓行は詩「羊雲」の中で次のように詠っている。

・・・・
そのディスクは たしか
異国の少女への愛のために亡命した
若きピアニストがいっしんに弾く
<軍馬>という綽名の
起伏の多いコンチェルト。
彼が捨てた祖国の古い音楽

ぼくは急ぎ足で
取引先に向かう。
しかしよく晴れた秋の空の羊雲
ぼくは亡命していないのに
祖国への
遙かな悲しみ。

この若いピアニストはアシュケナージであり、<軍馬>とはチャイコフスキーの[ピアノ協奏曲第一番変ロ短調」に付けらた綽名といわれている。私はアシュケナージの祖国の音楽の指揮を聞きながら、この清岡の詩を思い出した。スクリャービンのプロメテウス (火の詩)の壮大な音楽のときは感じなかったが、悲愴を指揮する彼の表情が憂いに充ち沈んでいるように見えたのは私の先入観のせいかもしれない。

清岡卓行作詩  羊雲(四季のスケッチより) 中央公論社  1983年12月刊

死者を弔う

東北の早春はまだ肌寒い。4月を迎えたというのに時々粉雪は舞い落ちる。この時期、知人、友人の最期を見送った。希望の春というのになんとなくわびしい気持ちである。そのとき、井上靖の書いた詩を思い出した。

春の日記から  -ある人の死にー   井上靖

雪が舞い、歇んで、暫く春の陽射しが降った。そしてま
た冬が立ち返って、白いものがちらちらした。とまどい
ながら、それでも嫩葉がいっせいに芽吹きだした。嫩葉
が芽吹きだしたので、あなたはあわただしく席を譲った
のだ。

その晩、春の風が吹いた。風の音は長くあとをひいて聞
えていて、次第にかぼそくなり、やがて消えた。風の音
がもう聞えなくなった時、あなたは何事か起らねばなら
ぬと信じたのだ。しかし、何事も起らなかったので、あ
あなたは自分が姿を消したのだ。

ある人の死を想う見事な挽歌である。深い静寂のなかに知人の死を見送る言葉が平易のなかに沈積した内容を包んでいる。北国の早春の雰囲気と死者を悼む声がハーモニーとなって表現されている。

作家の井上靖の小説は昔から愛読しているが、彼が詩人であったことは意外としられていない。この詩は詩集「運河」のなかの収められている詩であるが、最初の詩集「北国」のあとがきで「詩とは厳しく言えば、恐らく呪術であろう。呪術そのものに違いない。そして私はついにその呪術を発見できなっかた詩人ということになるだろう。 私は小説を書き出してから、自分の詩をノートに収めてある作品から、何篇かの小説を書いている。詩として優れた生命を持ち得なかった文章のいくつかは私の小説の発想の母体になっている。」井上靖の小説には詩人の魂が宿っていたのである。

この井上靖の詩を亡き友人、知人に贈りその死を弔いたい。

井上靖著  井上靖全詩集  新潮文庫  1983年8月刊

書評「藤田嗣冶「異邦人」の生涯」

現在画家・藤田嗣冶の展覧会が東京国立近代美術館で「生誕120年藤田嗣冶展」 のタイトルで開催されている。国際的に知られている画家なのに、日本でこのような展覧会が戦後開かれたのは初めてだそうである。

それはなぜか?彼が戦争中に戦争画を描いて批判されたことは知っていたが、今回NHKのディレクターである近藤史人氏が著した「藤田嗣冶「異邦人」の生涯」を読んで彼が日本で受けいられない真相を知ることが出来た。

彼は上野美術学校を出て日本の画壇に飽き足らず渡仏しパリで注目を浴びる。彼の描いた「私の部屋、目覚まし時計のある静物」はパリのサロン・ドントーヌでは高く評価されるが、それを日本の展覧会にも出品するが無視される。また彼の異様な服装、女性関係をめぐる中傷もあり国辱との批判さえ受けている。

彼はパリから1929年17年ぶりに帰国。ここでも画壇から彼の作品は宣伝と変な服装のせいで有名になったと冷たい誤解と非難の言葉で迎えられる。翌年パリに傷心を抱き帰っている。しかし世界各地を彷徨の末32年日本に舞い戻っている。日本に帰らないと誓ったのになぜ帰国したのか?藤田は誰よりも日本人を意識ていたのではないかと著者は述べている。

帰国し出会ったのが秋田の美術コレクター平野政吉であり、彼の誘いを受け秋田にきて大壁画「秋田の行事」を描いている。平野は藤田のよき理解者と言われ現在でも秋田市にある「平野政吉美術館」に多くの作品があるが、この本では彼らには行き違いがあり、当初「藤田嗣冶美術館」を作る予定であったが平野に利用されたという藤田の誤解は解けなかったという。これは意外であった。

1939年三度渡仏した藤田は次の年パリ陥落寸前また帰国。ここで戦争画に協力することになる。戦時体制の中で彼の戦争画がもてはやされ、日本画壇からようやく認められる。しかしこれが戦後災いして多くの画家が戦争画を描いたにもかかわらず、全て彼に責任をなすりつける。

日本人でありながら「異邦人」として冷遇され、なんとか日本人になりきろうと「戦争画」製作に協力したのに戦後は彼に非難の目を向ける。この本を読み、日本画壇の了見の狭さ、さらにいえば日本人のいやらしさを感じた。藤田はパリに帰り帰化し二度と日本に帰ることがなかった。

近藤史人著  「藤田嗣冶「異邦人」の生涯」 講談社文庫  2006年1月刊

日本語を慈しむ

月刊誌「潮」4月号で、評論家の山崎正和氏と作家の阿刀田高氏が「日本語を慈しむー感性をどう育てるか」のテーマで対談をしている。

最近の若者の言葉の例として山崎さんは「MK5」(エムケーファイイブ)を挙げている。意味は「マジキレ5秒前」で本当に怒るぞという表現だそうである。このように若者言葉を中心に日本語が激しく変化してきているが、山崎さんは戦後特に子どもの周辺に公共の空間がなくなり、常に「あなた」と「私」のように二人称の関係だけで結ばれ三人称の世界がなくなったことを指摘している。第三者にも通じる形のコミュニケーションがなくなったというのである。

私たちの時代も少年特有の隠語があって悪さもしてが、大人と言う第三者に使う言葉は自然に身につけ言葉を大切にしてきたように思う。ところが最近は携帯電話を例として「あなたと私」の閉鎖的な世界が強化され、反射的な言葉がボンボン飛び出すまさに「MK5」の言葉の世界が飛び交っている。

そこで二人は教育に「暗唱」を取り入れることを提唱している。そういえば小・中学校時代国語の時間に名文をよく暗唱させられたことが懐かしい。中学校時代、三好達治の詩、「甃のうへ」を暗唱させられ今でも最初の部分を覚えている。

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ 
をみなごしめやかに語らひあゆみ
・・・

山崎さんは暗唱は文章の構造や用語の脈絡を心の中に展望できるものとして重視すべきことなのに現在の国語教育では絶無になったいう。最近斉藤孝氏が「声を出して読みたい日本語」を著したが、これも山崎さんの考えと似ている。また暗唱と同時に朗読もよくやらされた。戦時中であるが、各家々からは子どもたちの「朝読み」の声が聞こえてきた。隣の家の友に負けないように声を張りさげて読んだ想い出が忘れられない。

山崎さん、阿刀田さんとも日本語の色彩表現の豊かさ、感性の鋭さについて語っているが先日ある古典に「縹色(はなだいろ)」という言葉がでてきた。「縹」とは青い露草の別名この露草でつくる染料で摺り染めた色が「はなだ色」で薄い藍色だそうだ。山崎さんもこの色について述べいるが日本人の豊かな言語は驚くばかりである。

山崎さんは言葉というものは砂のように崩れやすすいものであるから、言葉に対しては保守的になり、皆で努力して固めていかなければならないと警告している。傾聴に値する指摘である。

山崎正和VS阿刀田高 対談  日本語を慈しむ  潮4月号 2006年4月

岩波新書新赤版を読む

岩波新書には昔からお世話になっている。この4月で新赤版が1988年発行以来千点を突破したそうだ。岩波の書評誌「図書」4月号に紹介されているベスト10をあげてみる。

◯1.大往生(永六輔著)1994年 238万部
2.日本語練習帳(大野晋著)99年 192万部
◯3.豊かさとは何か(暉峻 淑子著)89年 76万部
◯4.日本人の英語(マーク・ピーターセン著)888年73万部
5.二度目の大往生(永六輔著)95年 67万部
6.地球環境報告(石 弘之著)88年 51万部
◯7.あいまいな日本の私(大江健三郎著)95年48万部
7.職人(永六輔著)96年48万部
◯8. 蓮如(五木寛之著)94年39万部
9.「日本語」新版上(金田一春彦著)88年39万部 (◯読んだもの)

このうち「日本人の英語」が4位に入っているのは驚きであった。英文学、近代日本文学の専門のるマーク・ピーターセンは彼が出会ってきた日本人の英語の問題点を糸口にユーモア溢れる例文を示しながら、英語的表現について懇切丁寧に説明している。その2例を紹介する。

アメリカ留学中の日本人からの手紙 Last night,I ate a chiciken in the backyard.簡単な英文ですぐに鶏肉を食べたとわかるが、実はa chickenは1羽の鶏のことで、もし鶏肉を食べたことだとすればchickenになるという。ただこれだけの説明なら凡百の本にあるが、彼はもしこの違いを分かりながらこの手紙にわざと書いたとすれば、「帰国せずに文筆によってアメリカでよい暮らしを立てられるだろう」とユーモアをもって書いている。

ある日本人から次の英語の説明を求められたという。The recieved wisdom is that the project is doomed to end in failure.(その計画は失敗に終わるのがオチだというの定説である)「オチだという定説」は意訳であるが、The recieved wisdomの意味がキーポイントのようだ。そのまま訳すと「受け入れられた知識」であるが、これは一般に正しいと認められている説た論」を意味するそうだ。なるほど英語の深さをそこに感じる。それを「オチだという定説」と訳したのも心憎い。

この本が多くの日本人読者に読まれたのはなんとなく分かるような気がする。英語そのものの勉強というより欧米の文化を知るうえで興味ある視点が多く用意されているからである。岩波新書にはオカタイものも多いが、我々の日常にふれるもの多く、それがベスト10に多く入っている。

マーク・ピーターセン著  日本人の英語  岩波新書  1988年4月刊

晩年の美学

作家の曽野綾子さんの「晩年の美学を求めて」が4月7日朝日新聞社から出版される。実はこの本は朝日新聞社の書評誌「一冊の本」に03年7月から05年10月まで載せられたエッセー集である。この雑誌はかなり前から採っていたが、このエッセーを読んだり読まなかったりで余り熱心な読者でなかった。しかし、その目次 をみるとかなり刺激的な題で書かれているので改めてバックナンバーを書架から取り出読んでみたところである。

本の宣伝では「老年まっただなか70代半ばに達した著者が、ロングセラー『完本 戒老録』以来20年ぶりに贈る、老年エッセイ集。最近、周囲から敬意を払われていない老人が多いのはなぜか? 他人の好意にすがらない。分相応を知る。頭と気力のトレーニングに必要なことは? 精神的老化を防止し、いきいきとした晩年をおくるために不可欠なさまざまな知恵を、やさしく深く提案します。高齢化社会の新しい幸福論」とあるように曽野さんの老年論や人生観を知ることが出来る。

その中で特に印象に残った章を二つ書いておきたい。その一つは11章の「くれない族」である。自分の精神の老化を計る尺度はどれ位の頻度で「くれない」という言葉を発することだという。配偶者は「してくれない」、政府が「してくれない」、ケースワーカーが「シテクレナイ」などなどをいう人が多く見られるという。曽野さんはこのような人を「くれない(紅)族」と呼んでいる。そしてこの精神的老化は実年齢と殆ど関係がないと指摘している。どうして人間は知恵と体力があるのに早々と他人に頼る生き方に見切りをつける賢さを完成しないのだろうと嘆いている。100パーセント賛成ではないが現代の風潮をついている。


21章の「単純労働の重い意味」も考えさせられる。「ごくありふれた、平凡でいつでも代替にきく仕事。その手のものは若者ではなく、高齢者が引き受けるべきものだ。若者の数が減り、高齢者の溢れる時代なったらなおさらだ。それを屈辱的な作業だと思うような愚かな姿勢は徐々にではあっても排除しなければならない。」わたしの身の回りには過去の栄光を背負っている人間が多くいる。曽野さんはそのような人たちに向けての言葉なのかもしれないが、畑の除草に精を出す自分のことを想いだすと色々な工夫が必要であり、「高齢者のみがもしかしたら単純労働に携わりながらあらゆることを考える才能を発揮できるのではないか」という意見は納得できる。

今月4月号の「一冊の本」で今回のこの本の発行ついてそのインタビューに答えて曽野さんは「極度に飢えない、不潔を我慢しない、寒さに震えない、医療を受けられる、このことを満たせることは大変幸福なことです。でも今の日本人はそれをだれも幸福と思わないで不満ばかり。基本的な幸福の上にある個人個人がちがいをうまく個性にして尊重しあい、生かしあえる社会になるといいですね」と述べている。

これが曽野さんの人生観のようである。基本的には賛成であるが、体制に順応した生き方ともとられかねない考えも内包している。全体を読んでなるほどと思いながら、そのような危惧をもつのは自分自身、「不平不満居士」の要素を持っているせいかもしれない。

曽野綾子著  晩年の美学を求めて  朝に新聞社  2006年4月7日発行予定