日月抄ー読書雑感 -27ページ目

「坂の上の雲」異聞

文芸評論家、関川夏央氏が文芸誌「文学界」に司馬遼太郎の「『坂の上の雲』を読む」を連載している。この本は文庫本で8冊であるが、1冊ずつその読み方や内容を補説しており大変参考になる。

 

その4月号で、日露戦争の開戦決定から東郷司令官の連合艦隊が佐世保を出発する時間の経緯に司馬さんの記述に食い違いがあるのではないかという慶応大学速水融名誉教授の指摘を紹介している。

 

「坂の上の雲」の記述を時間系列にすると次のようになる。明治34年(1904)2月4日午後、御前会議開催し午後6時国交断絶決定。2月5日、駐露日本大使に伝える。佐世保にある連合艦隊に出撃命令(封緘命令書)を届けるために山下源太郎大佐が4日夜東京を発ち、佐世保に翌5日の午後6時30分ころ到着。午後7時山下大佐旗艦「三笠」艦上へ、東郷指令に封緘命令を渡す。6日午前9時連合艦隊佐世保出発、朝鮮仁川へ向かう。

 

ところが速水名誉教授が、当時の列車運行状況を調べると、どうしても佐世保まで44時間かかる計算になり、山下大佐が4日18時の急行に乗ったとしても、佐世保に着くと2月6日の午後2時ということになり、司馬さんが記述した時間では合わないというのである。

 

そこで、速水さん次のような仮説を立てる。山下大佐は2月3日夕方(午前会議の前日)東京出発。2月4日22時28分広島着(停車時間9分)。ここで呉海軍基地に伝送された御前会議決定の暗号電報(伝達命令)受理し、これをもって直ちに佐世保に出発、5日午後に佐世保到着。これだと命令の時間に余裕があるというのである。

 

これに対して関川さんは、速水説は暗号電報だけで伝達するなら、山下大佐の手をわずらわさず、佐世保に直接打電すればすむとして、次のように推理する。既に2月3日に開戦の態度決定が内々になされ、山下大佐は2月3日「封緘命令」をもって出発。4日の御前会議の正式決定を広島で電報で確認し、佐世保に向かったという説を立てている。

 

このようにみると関川説が一番妥当のようである。しかし、関川さんは「司馬遼太郎のミスをつつきたいのではありません、戦争という全国力を動員した苛烈な政治行為である戦争を描いた「坂の上の雲」は、大いに想像をそそるといいたいのです」と述べている。時刻表から歴史を考えることができるのが面白い。

 

司馬遼太郎著  坂の上の雲 全8巻 文春文庫1978年2月刊

石川啄木の命日にあたり

今日、1月13日は石川啄木の命日である。啄木は明治45年(1912年)に亡くなっているから、没後93年ということになる。WEBで調べても「石川啄木忌」の行事はないようであるが、その前後に啄木についての研究会があることをWEBサイ「啄木の息」が伝えている。このHPは啄木研究の様子がわかり、管理者の熱意に頭がさがる。その中で、5月13日我孫子市の「白樺文学館」で開かれる「石川啄木と小林多喜二」の講演会に興味を惹かれた。その講演内容は次の通りである。

 

「明治40年5月石川啄木は、故郷岩手県盛岡市の郊外澁民村から函館、札幌をへて同年10月小樽へやってきます。一方の小林多喜二が秋田県大館市から、小樽へ移住してきたのはその2ヵ月後の12月のことでありました。啄木は翌年1月には釧路新聞社へ転職して小樽を去ります。石川啄木と小林多喜二の二人はわずか2ヶ月間ですが、灰色の雲におおわれた雪深い小樽の町で共に過ごしたことになります。啄木21歳、多喜二4歳の冬でした。」

 

もちろん多喜二は4歳であるから啄木との直接的出会いはないと思うが、多喜二が作家になる前に啄木の歌に熱中した時期があったとことなど、講演なさる地元我孫子在住の啄木研究家として著名な碓田登氏が二人の間の隠れた数々のエピソードのお話があるという。

 

多喜二と啄木に思想的・文学的にどんなつながりがあるのか、碓田氏はその著書「石川啄木 社会主義への道」で、「小林多喜二と啄木―その短歌観をめぐって」について書いておられるので、この本を読むと分かるかもしれない。なお今年は妻節子との結婚100周年にあたるという。

 

碓田登 著 石川啄木 その社会主義への道  かもがわ出版 2004年9月 刊

「啄木の息」http://www.page.sannet.ne.jp/yu_iwata/takuboku.html

筑豊のこどもたちはどうしているか?

昨日の新聞は「最強の労組」と言われた三池労組が10日、静かに解散した。戦後の労働界を大きく揺さぶった三池争議、最悪の労災事故となった三川鉱の炭じん爆発、そして三井三池炭鉱の閉山。元炭鉱マンや主婦たちに「それぞれの三池」があった」と報じている。(Asahi  Com)

 

炭鉱もすでに閉山し、労働組合もとっくに解散していたと思っていたが、ここ数年は記録の整理などに追われていたとのこと。なにしろ59年の歴史があり、昭和30年代に入り、石炭から石油へのエネルギー転換策が図られれ、炭鉱は閉山に追いやられ昭和34(1959年)12月、三井鉱山が三池労組に対し約1280人の指名解雇を通告した。労組側は翌60年、無期限全面ストに突入。財界が会社を、総評が労組を支援し「総資本対総労働の闘い」といわれた「三池争議」は歴史に残る出来事であった。

 

この争議か起きる直前、写真家土門拳は筑豊の炭田に出かけ、失業者と子どもたちの生活、、家族ぐるみで闘う労働者の姿を写している。その中で生まれたのが、写真集「筑豊のこどもたち」であった。表紙になった少女の写真に土門は「「るみえちゃんは美しい少女だ。るみえちゃんの一番の心配は、焼酎が買えない日のお父さんのきげんの悪いことだ」と書き添えている。また「弁当を持ってこない子」の写真では「弁当を持って来ない子は目のやり場がないので絵本を見ている」光景を写しだしている。炭鉱の悲惨な生活の中で、けなげに生きる子供たちの姿に打たれるものが多い。

 

しかしこのような土門の写真に批判もなくはない。土門拳賞を受けた写真家本橋成一は1963年、やはり筑豊炭田を描いた写真集「炭鉱(やま)」を出す。一昨年秋田にきた本橋さんにこのことを話すと彼は「私は土門さんが嫌いです」といったことをを覚えている。土門の写真は哀れっぽく、かわいそうに映っている子ども多く全体として暗い面がある。おそらく本橋さんは炭鉱の中に入り込み明るくたくましく生きる人々の姿を映し出したのも土門に対するアンチテーゼだったのかもしれない。

 

それにしても土門が描き出した「筑豊の子どもたち」はもう40歳を超えているはずである。彼らはいまどんな生活を送っているだろうか。三池労組の解散式に集まった人の数は150人だったという。

 

土門拳著   筑豊のこどもたち 築地書館 1977/07出版

筑豊のこどもたち

負け組、会津藩の人々の生き方

24回新田次郎文学賞に、中村彰彦さんの「落花は枝に還らずとも――会津藩士・秋月悌次郎」(上下、)が選ばれた。中村さんは平成6年「二つの山河」で直木賞を受賞した作家で幕末、明治を舞台とした歴史小説が多い。その中でも「新撰組」や「会津藩」などいわば「敗者」が幕末、明治をどう生きたかに焦点を据えた作品が多い。

特に会津に対する思い入れ強くその作品を拾ってみると、鳥羽伏見の敗戦後、会津藩に身を投じ維新後は藩と命運を共にした新選組三番隊長・斎藤一を描いた「明治無頼伝」、会津を率い戊辰戦争を戦いオニカンと呼ばれ怖れられた佐川官兵衛を描いた「鬼官兵衛烈風録 」、明治の世を懸命に生き抜いた白虎隊を描いた「白虎隊」、逆風の明治を歩みながら兄は将軍、弟は東大総長となった山川兄弟を描いた「逆風に生きる 山川家の兄弟 」などがある。また幕末ではないが、江戸初期の会津藩主保科真之の生涯を描いた「名君の碑」もある。

そして今回の受賞作品、秋月悌次郎である。秋月は最後の会津藩主松平容保につかえた武士。昌平坂学問所に留学。遊学十余年ののち、会津藩公用方として公武融和のため活躍。しかし反対派のために蝦夷地に左遷。幕末の急変で再び京都に呼ばれ、事態の打開に奔走。鳥羽伏見の戦いで副軍事奉行として籠城戦を指揮、兵糧がつき自ら降伏・開城を段取りをする。戦争責任を問われ終身禁固刑となるが、特赦され熊本の第五高校などに勤め、小泉八雲とも親交を温めている。明治33年、77歳で波乱の生涯を終えた人物である。中村さんはいはば会津藩滅亡に立ち会い、亡国の遺臣となった男が逆風の時代をどう生きたのかを描いている。

このように会津藩には、維新後野にあり誠実に生きた人物が多い。明治のはじめ、新宿西口に牧場を開き新時代をもたらした広沢安任、維新後・東京で英語・数学を学び渡米、エール大学で学位を得て、明治34年東京帝大総長となった山川健次郎、江戸へ出て佐久間象山に砲術を学び戊辰戦争で敗北、幽閉。そして失明。釈放後商工会頭として活躍。新島襄らの同志社創立にも協力した山本覚馬など多士済々である。

会津藩という「負組」の中で彼らにとっては明治という無常かつ非情な時代をどう生きたのか。その生き方は現代の我々にも共感を呼ぶものが多い。

中村彰彦著  花は枝に還らずとも〈上・下〉―会津藩士・秋月悌次郎 中央公論新社 (2004-12-10出版)

「ビルマの竪琴」再考

少年時代、竹山道雄の「ビルマの竪琴」を読んだ感動が忘れられない。終戦後もビルマに残って僧侶となり、戦場で散った日本兵たちの慰霊に残る人生を捧げようとする水島上等兵の物語である。反戦平和を描いた名作として今でも読み継がれている。映画も感動的で敵・味方である英日の兵がビルマのジャングルで「埴生の宿」を歌うシーンは涙がとまらなかった。

後年、この児童文学は竹山が旧制一高のドイツ語教授時代、教え子が次々に出征し戦死していったことを悼み、「戦死した人の冥福を祈る雰囲気が新聞、雑誌になかった。戦った人は誰でも悪人である雰囲気があった」と戦後の状況を見て彼らを弔うために書いたものだといわれる。評論家関川夏生にいわせると、この作品は、童話の姿をとった「思想小説」であるというのである。

さて本題、最近馬場公彦氏が「『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』という本を著した。新聞書評(毎日、朝日)などによると、馬場さんは改めて知識人の戦争責任を考えるためにこの本を著したとしている。竹山は多数の学生を亡くした無力感にさいなまれ、知識人の不作為責任を強調したとも述べている。

その竹山も戦後は保守派イデオローグと見られていく。冷戦時代、べトナム戦争、米原子力空母の寄航に賛成するなど批判を浴びたことは知っているが、彼の考え(思想)が変化したのどうか、彼の著書を読んでいないので分からない。戦後の時流に乗り考えを変えていった知識人を見るにつけ、彼にはブレがあまりなかったのではないかと思うのだが・・・。この本を読み、忘れ去られようとしている竹山道雄についてもうすこし知りたいと思っている。

なお「ビルマの竪琴」で最初は中国戦線を考えたが、中国人と共有できる歌がないので、「埴生の宿」[Home Sweet Home]という共通の歌がある英軍、そして戦場はビルマになったようである。馬場さんの「共通の歌による和解と鎮魂という筋道は、日英だから可能だった。では日中、日韓間のマスターキーは何か。戦後60年を経た今も私たちは見いだせていないと思います」という発言は重い。現に中国反日デモで、北京の日本大使館に反日デモ隊が投石し、窓ガラスが割れる被害が出ばかりである。日中、日韓に共通の歌はないのか?

馬場公彦著 『「ビルマの竪琴」をめぐる戦後史』法政大学出版局 2004年12月刊

谷川俊太郎の詩

詩人の谷川俊太郎さんが先月、中国内外の文学作品を対象とした「二十一世紀鼎鈞双年文学賞」を外国人として初受賞した。 受賞作品は、谷川俊太郎さんの詩集を中国語に翻訳した「谷川俊太郎詩選」(中国河北教育出版社)で、谷川さんがこれまでに発表した代表的な詩を、中国の詩人の田原さんが選び、翻訳した。

 

同賞選考委員会は、授賞理由について「人の生死、出会いと別れといったテーマを独特の手法で描いており、平易な表現の中に込められた思想は深い」(陳暁明・北京大学教授)と説明しているが、その本をみていないのでどんな詩が入っているか想像してみた。おそらく「20億光年の孤独」や「祝婚」 「死んだ男の残したものは」は入っているのではないか。

 

"[死んだ男の残したものは」ベトナム戦争当時出来たものでこれに武満徹が曲をつけて反戦歌としてよく歌われたと記憶している。しかしその内容は単なる反戦歌を超えて人間の生死を描いているように思われる。http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/shindaotokonowaltz.html

 

この詩の次の1節*注1は[祝婚]の次の1節*注2に連動しており、谷川の死生観が浮き彫りにされている。

 

死んだかれらの残したものは
生きてるわたしの生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない
注1(死んだ男の残したものは

 

めでたいこの日にも
やはりどこかで人は死んでいる
愛しあうもののために
生まれてくるもののために
彼がこの世界に遺してくれたのはいい
注2(祝婚

 

なによりも谷川の詩は平易な中にも何か琴線にふれるものがある。話題を呼んだネスカフェのCMに使われた「朝のリレー」も広がりのある詩である。ネスカフェのHPから息子、谷川賢作の音楽をバックにその詩の朗読を聴くことができる http://jp.nescafe.com/morning

 

 

谷川俊太郎著 谷川俊太郎詩集(正、続)(新版)思潮社  2002/01刊

硫黄島の星条旗の真実

6日の新聞は米国を代表する俳優で映画監督のクリント・イーストウッドが、東京都庁に石原知事を表敬訪問し、太平洋戦争の激戦地硫黄島(東京都小笠原村)を舞台に日米の死闘とそれを戦った男たちの人生ドラマを映画化する意向を明かすとともに、同島での撮影協力を求めたことを伝えている。

 

原作は「硫黄島の星条旗」(邦訳タイトル、ジェイムズ・ブラッドリー、ロン・パワーズ共著)。硫黄島の摺鉢山に1945年2月、6人の米兵士が星条旗を掲揚。この模様をAP通信カメラマンが撮影した写真は、全米の新聞が一面で掲載し国民の士気を高揚させた象徴で「世界で最も美しい戦争写真」ともいわれた。同書は兵士6人の人生を追ったドキュメントとも伝えている。

 

ところが、この写真は再構成されたもので、硫黄島にやってきたジェームス、フォレスタル海軍長官が山頂の星条旗を持ち帰りたいと言い出し、そこで代わりの星条旗を掲載することにした。その作業をしていたときに、頂上にたどり着いたローゼンソールが写したのは実は「2回目の国旗掲載」の写真であったといわれている。

 

戦後英雄に祭り上げられたのは、旗を掲げた1回目に兵士(4人)でなく、2回目の兵士(6人)たちであり、1回目の兵士たちはその栄誉に浴することがなかったといわれている。このノンフィクションの作者ジェイムズ・ブラッドリーの父はこの6人の中の一人であるが、生前、完全に沈黙を守り、終生輝かしい過去について語らず、わずかに息子に「ずっと忘れないでいてもらいたいことがある。硫黄島のヒーローたちは、帰ってこなかった連中だ」 だと述べたといわれる。果たしてクリント・イーストウッド監督はこの硫黄島の戦いをどのように描くのだろうか。

 

ジェームス・ブラッドリー/パワーズ・ロン著 硫黄島の星条旗 文春文庫 2002年2月刊

戦艦大和の最期

今日7日は戦艦大和が沈没した日である。共同WEBは次のように報じている。「旧日本海軍の戦艦大和が東シナ海で米軍機の爆撃を受け、沈没してから7日で60年。建造の地、広島県呉市にある旧海軍墓地では同日午前、元乗組員や遺族らが「戦艦大和戦死者之碑」に花をささげ、犠牲者約3000人の冥福を祈った。 この日はあいにくの曇り空。約100人が慰霊行事に参列した。(7日共同)

 

生存者はもう80歳を超えているという。この記事を見て奇跡的に生き残った学徒出身の少尉、吉田満が終戦直後記録した『戦艦大和ノ最期』を思い出した。改めてこの本を読み返してみた。これは吉田が沖縄特攻作戦に参加して撃沈されたこの巨艦の出撃から終焉までの経緯をまとめたもので、終戦の直後一日をもって書かれたという。その中に戦場に赴く将校たちの心情が吐露されている。その中で出撃前夜の「何のために出撃するのか」という将校たちのの論議が目を惹く。

 

白淵盤大尉低ク囁クゴトクイウ「進歩のナイモノハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ャ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目ザメル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目ザメズシテイツ日本ガ救ワレルカ 俺タチワソノ先導にナルノダ 日本ノ新生二サキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」

 

この白淵の考えに反問があり、「遂二鉄拳ノ雨 乱闘ノ修羅場トナル」場面があり最後には「白淵大尉ノ右ノ結論ハ、出撃ノ直前、ヨクコノ論戦ヲ制シテ、収拾二成功セルモノナリ」と吉田は書いている。彼らは日本の将来を見通して戦場に散っていたことがわかる。

 

吉田の記録は、戦場に赴き散っていた将校たちの心情をありのままに伝えている。この死生をさ迷った吉田の叫びは今でも我々の琴線に触れるものがある。

 

吉田満著 戦艦大和ノ最期  講談社文芸文庫 1994年8月刊

三島は太宰が嫌い?

戦後を代表する作家で今年生誕80周年を迎えた三島由紀夫(1925~70)の若いころの日記(会計日記)が見つかり、山梨県山中湖村の三島由紀夫文学館で公開が始まった。期間は、東京大法学部在学中から高等文官試験に合格した直後までの1年半。流行作家として人気を博していた太宰治と出会った日付や経緯も特定された。(4月5日 YUMIURI BOOKSTAND)

 

三島と太宰のたった一度の出会いは三島が「私の遍歴時代」にも書いており知られているが、その日が1946年12月14日と特定されたわけである。太宰38歳、三島21歳の時である。三島はその回想の中で、太宰と会ったとき、「僕は太宰さんの文学がきらいです」といったら、太宰は「そんなことを云ったって、こうして来ているんだから、なあ やっぱり好きなんだ」と云ったという。

 

三島はこの出会いを忘れず何度も人に向かって話したので、彼が太宰を嫌いなことが定説になっていったようである。しかし、何故なのか?イギリスのジャーナリスト、ヘンリー・スコット=ストークスはその著書「三島由紀夫 生と死」のなかで、「太宰は三島がどうしても勝てなかったごく少数の人間の一人なのだろう。しかも1948年に愛人とともに死んでしまったために、三島はついに太宰を抜く機を失ったわけである」と太宰を彼が意識していたわけを述べている。

 

また、日本文学研究者、ドナルド・キーンとの手紙のやり取り「三島由紀夫未発表書簡」(2001年中公文庫)の中で、三島が「数日前「日本文学」の太宰集が届き、キーんさんの解説を拝見しました。・・・この太宰の御解説は日本の批評家が殆ど触れない文体、構成、描写、技巧などについて周到に分析され、実に納得のいくように書かれているのみならず、一方、批評は批評として、太宰のキリスト教についてズバリとしたご意見やら、「走れメロス」(小生もこれを少しもいいと思いません))の否定やら太宰をよく読み、よく愛した人だけに可能な正しい批判であります。」(1964年)と書いている。

 

三島は、太宰の作品をよく読み、心の中では彼を意識しながら小説を書いた気がしてならない。それは単に「嫌い」とすまされない問題を含んでおり、その創作活動に微妙な影響を及ぼしたと考えられる。

 

ヘンリー・スコット=ストークス著 徳岡孝夫訳 「三島由紀夫 生と死」  清流出版 1998年11月刊

村の郵便配達夫

郵政民営化の政府案の骨格が決まったようである。郵便、貯金、保険、窓口ネットワークの四分社化を堅持。その上で貯金、保険両会社は、株の完全売却によって2017年に完全民営化。最大の焦点だった持ち株会社が保有する貯金、保険両会社株に関しては、首相の裁定で、2007年の民営化開始から10年後までに完全売却することを義務づけることになっている。

この改正案を新聞で読みながら、次第に今までの郵便局のイメージが消えてゆくのは時代の流れとはいえ寂しさを感じたしだいである。明治に郵便局制度が確立、村の郵便配達夫は地域に情報を運んでくれるキーマンであった。またいつ来るとも知れぬラブレター(この言葉もなつかしい)を運んでくれる恋の使者でもあった。

数年前、中国映画「山の郵便配達」が話題になった。これは老郵便配達夫が、愛犬だけをお供に山の奥深くの村々へ郵便を配って歩いていたが、老いには勝てず引退の時が来て、仕事を引き継ぐため初めて息子をつれて最後の旅に出る。美しい自然のなか、仕事と人生と親子の情愛の深さをしみじみ伝える映画であった。中国の作家、彭見明(ポンジエンミン)の短編小説の一つを映画化したものである。

郵政の民営化はあくまでも郵貯、保険の巨大資金をどのようにするかの政治の問題である。おそらく村の郵便局も次第に消えていくだろう。そして「山の郵便配達」のような風景と濃密な人間関係は日本の村々にもう見られなくなるだろう。何よりも大きな政治の流れに、人間関係が希薄になっていくのでないかと、あの映画を思い出し感傷的になってしまうのである。

彭 見明(ポン ヂエンミン)著・大木 康訳 山の郵便配達  集英社 (2001-03-31出版)