日月抄ー読書雑感 -25ページ目

二十歳にして心朽ちたり

書架を整理していると、かなり前に読んだ、柏谷一希氏(元中央公論編集長)の著書「二十歳にして心朽ちたり」が出てきた。これは本の題名に妙に惹かれて購入した記憶がある。この本は柏谷さんが一高、東大時代に有り余る才能をもち、戦後全国大学高専機関紙と銘うった雑誌「世代」の初代台編集長となった遠藤麟一郎氏の生き方を綴った本である。遠藤さんはその後、無名のサラリーマンとして過ごすが、柏谷さんはその彼を「二十歳で心朽ちたり」と表現したのである。


実はこの題名は中国の宋代の詩人 李賀の贈陳商の冒頭詩から引用であることを柏谷さんは本の最後に述べている。それは次の詩である。


贈陳商   李賀

長安有男児  長安に男児有り
二十心已朽  二十歳(はたち)にして心すでに朽ちたり
人生有窮拙  人生に窮拙有り・・・

日暮聊飲酒  日暮れていささか酒を飲む
祇今道已塞  ただ今道すでに塞がれる
何必須白首  何ぞ必ずしも白首を須(ま)たん


私にとって李賀がなぜこの詩のなかに「二十心已朽」をいれたのか興味のあることであった。 宋代の評に曰く、李白を天才絶、白居易を人才 絶、李賀を鬼才絶となす、といわれたようで、李賀は優れた才能をもちながら科挙の任官を拒否され不遇のうちに27歳で夭折した詩人であることが分かった。その後彼の詩を岩波から出ている選集で読んだが、個性的で描写力もあり惹かれる詩が多い。しかし、贈陳商の詩で「二十歳で心すでに朽ちたり」はなんとも痛々しく彼の悲憤慷慨が聞こえてきて切ない。


中国詩人選集 李賀  荒井健注  岩波書店 1959年2月20日

百聞は一見に如かず

日本の近代の歴史、特に日中15年戦争の歴史を見る場合、戦争の悲惨さと日本の侵略を強調しその戦争責任を問う考え方を「自虐史観」と批判し、大東亜共栄圏を建設しアジアの近代化に戦争は役にたったという考えの学者さんもおられるようである。評論家佐高信氏はこのような考えの人を「自慢史観」と揶揄しているが、人それぞれ考えの違いはあり、わたしはこのことを論じるつもりはない。


ただ、戦争を知らない若い人たちが、当時の様子についてどんな考えをもっているのかに興味がある。今度、西牟田靖さんという一人の青年が「僕の見た「大日本帝国」』という本を著した。当然、戦争を知らない世代である。彼はサハリンで出会った「鳥居」をきっかけに、サハリンからパラオまで4年間で南北4500キロ、東西2500キロに及ぶ日本の統治下にあった国々を訪れた。先入観を持たないで多くの人々と出会い、彼らの考えを紹介している。


そこには親日、反日の人もおり、西牟田さんはそれを偏見をもたずに伝えている。そして「植民地統治の是非については、これらの広大な地域で行われたことをひとまとめにして一元的な結論を出すことは、僕にはできない」と述べているのが印象的である。一つのイデオロギーに凝り固まり、意見の違う人たちを攻撃する人たちより新鮮に映るのはどうしてであろうか。昔から「百聞は一見に如かず」といわれているが、体験した人の言葉は説得力がある。


彼には「斜め下45度から 」というブログがあり、その中にもこの本にあるような記録が書き込まれており参考になる。過去に拘泥する必要はないが、過去を知る必要はあるという彼の姿勢は貴重であり、この見聞録はまだ続くようで、このブロクをみるのを楽しみにしている。


「「斜め下45度から 」http://www.doblog.com/weblog/myblog/5973


西牟田靖著 『僕の見た「大日本帝国」』 情報センタ-出版局  2005年2月

寺山修司を偲ぶ

1969年にカルメン・マキが歌って大ヒットした「時は母のない子のように」が36年ぶりに新人歌手によって歌われることが報道されていた。故寺山修司の作詞で彼が主宰した劇団「天井桟敷」のマドンナ的存在だったカルメン・マキのデビュー曲で大ヒットした歌である。


寺山が亡くなり22年なる。今年は生誕70周年だそうで色々な行事が開催されるようだ。彼には劇作家・演出家・劇団主宰・俳人・歌人・詩人・映画監督・競馬評論家という肩書きがつきそのあふれる才能に敬意を表するが、なんとなく胡散臭さも感じる。3年前彼の故郷、青森・三沢にある寺山修司記念館を訪れ、HPに「三沢紀行を書いたので参照されたし。

彼の「誰か故郷を想はざる」の中に天皇の敗戦の玉音放送の描写がある。「玉音放送が流れたときには、焼け跡に立っていた。つかまえたばかりの唖蝉を、汗ばんだ手にぎゅうとにぎりしめていたが、苦しそうにあえぐ蝉の息づかいが、私の心臓にまでずきずきとひびいてきた」寺山と同年齢で敗戦を迎えた私は「鳴かない蝉に暗喩を含ませた」敗戦の日の描写に感銘を受けたことが忘れられない。


ところが、田沢拓也氏が書いた「虚人 寺山修司伝」によれば、この本には随所に嘘が散りばめられているという。敗戦の日も、従兄弟の同級生は「修司は弱虫ですっかりおびえきってその日も防空壕から一歩もでなかった」と述べたそうである。田沢さんは、寺山がサブタイトルに「自叙伝らしくなく」とつけたのは「さすがに少しは気がとめたせいなのではないだろうか」と分析している。しかし私は寺山が「虚構の物語を創だすことにより、もう一つの現実を見る」と述べているように自叙伝の中にさえ虚構性を盛ることによって、自己を表現しようとする彼の創作態度をどう評価するかの問題ではないかと思っている。


それにしても、彼の和歌にも模倣がみられるという指摘もあり、私が胡散臭いと云ったのはそのような虚構性、模倣性が頭から離れないからである。それでも寺山修司の生き方に惹かれるのは同世代のせいだろうか。まもなく寺山の命日5月4日がやってくる。カルメン・マキの「時には母のない子のように」を聞きながら彼を偲ぶことにしよう。


「三沢紀行」 http://dewanokuni.hp.infoseek.co.jp/bungakukikou3.htm


寺山修司著 誰か故郷を想はざる ー自叙伝らしくなくー 角川文庫 1973年5月刊

ベトナム戦争終結30周年

昨日ベトナム戦争終結30周年記念式典が昨日30日ホーチミン市で開催された。べトナム共産党・政府は終戦記念式典としては初めて戦後補償に関する米国非難を封印した。今後の経済発展には米越関係の緊密化が重要との姿勢を強く打ち出すと同時に、ベトナム戦争という悲惨な歴史に節目をつけることを狙ったようだ。(Yomiuri Web)


ベトナムは86年に経済開放路線(ドイモイ)を採用。戦後20周年の95年には米国との国交を正常化し対米感情は好転したと聞いている。経済政策優先の中でべトナム戦争に節目をつけたいという気持ちは分からなくもない。しかし未だ戦争の過去を背負っている人々いることを忘れてはなるまい。TBSニュースは「ベトナム戦争中、アメリカ軍は密林に潜む北ベトナム兵士の活動を抑えるため、大量のダイオキシンを含む枯葉剤をまきました。被害の全容は明らかになっていませんが、100万人以上が枯葉剤による症状に苦しんでいるとみられています。」と伝えている。


またアメリカにおいても「ベトナム帰還兵の15%が心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状を訴え、いまだに多くが病院に通う現状が、「ベトナム」の傷跡の深さを物語る」と伝えている。(毎日新聞)被害者ばかりでなく加害者も苦しんでいる事実に今更ながらベトナム戦争の後遺症は根深いといわざるを得ない。


書架から1773年に出版された「ベトナム帰還兵の証言」を読み返している。そこにはベトナムで彼らがやった事実の告白、見てきた証言が生々しく記録されている。この中である特務兵は「自分たちは「パブロフの犬」のように特訓されベトナムに派遣された」と告白している。いわばパウロフの犬のように条件反射のように動く人間にしたてられ戦場に送られたというのである。だから死体の総数を証明するために殺した人間の右耳を切り取って報告することも平気で出来るようになる。平時になり、ストレス障害になるのも無理がないという他の事実も多く書かれている。


アメリカはこのべトナム戦争をどう伝えているのだろうか。ブロク「暗いニュースリンク」は「失われたベトナム戦争の教訓」でアメリカの学校教育においても戦争の事実を殆ど教えていない現状の新聞報道を紹介している。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」はいずこの国も同じなのか?この本を読み返しながら複雑な思いに駆られている。


*失われたベトナム戦争の教訓 http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/


陸井三郎編訳  ベトナム帰還兵の証言  岩波新書  1973年7月刊

桜ソメイヨシノはクーロン

東北の地にもようやく桜の季節が訪れた。西行法師が東北・平泉にきて、束稲山を歌った有名な和歌 「聞きもせず束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」の桜花は佐藤俊樹氏が著した「桜が創った日本」によると、その時期から考えて[カスミザクラ」ではないか、山形・山寺にも赴いて歌った「たぐひなき思ひではの桜かな 薄紅の花のにほいは」は色と場所からみて「オオヤマザクラ」だろうと述べている。


このように桜には多くの種類があり、大別すると「ヤマザクラ群」「エドヒガン群」「まメザクラ群」、「カンヒザクラ群」に大別できるが、我々がいつも見ている桜はソメイヨシノ(染井吉野)で現在の日本の桜の90%を占めているという説もある。


佐藤さんはこの本で特にソメイヨシノの起源、歴史、現状に触れている。その歴史は浅く「染井」と「吉野」の二つの地名から来ているが、染井は染井村(現在の東京都豊島区駒込)、この地は江戸後期から明治にかけて園芸業の一大拠点であったという。吉野は桜の名所として名高い「吉野山」である。これを命名したのは藤野寄命と言う学者で、この地の桜を調査中、分類学上知られいない桜の樹をみつけ、真の吉野桜と区別して1890年(明治22年)「ソメイヨシノ」と命名したといわれている。


この桜はオオシマザクラとエドヒガンの交配でできたと考えられるが、種子からは育たず、すべて接木、挿し木によるものだという。その意味でソメイヨシノは全て栄養繁殖すなわちクーロンであるという。クーロンというと丈夫な感じがするが、意外と寿命が短く20年で花盛りを迎え、50年で衰えはじめ70年で枯れて行くといわれる。


ソメイヨシノには普及した現在でも種子から増えずしかも枯れ易いために、人工的で不自然というイメージがつきまとう。しかし日本桜の大部分をを占めている。これについて佐藤さんは「ソメイヨシノの普及に人間が深く関わっているというより、本当ははソメイヨシノが人間をうまく使って繁栄してきたのではないか」その意味で、「ソメイヨシノは不自然ではなく、人間という環境ににうまくて適応した点できわめて強い生物である」という見方をしている。「ヤマザクラに「自然」「多神教」を見て、ソメイヨシノに「人工」や「一神教」を見る視線こそ「西欧的な頭の影響」で「人間による自然征服の自己満足」であるという鋭い指摘に成る程と思う。



佐藤俊樹著  桜が創った「日本」-ソメイヨシノ起源への旅ー 岩波新書 2005年2月刊

小林一茶の子づくり作戦

小林一茶(1763―1827)の生涯に惹かれ、彼が48歳から56歳までの9年間にわたる句日記である「七番日記」を図書館から借り読んでいる。一茶は15歳で江戸に出る。その間、父の死で遺産問題で故郷に一時帰っているが、この問題は長引き足掛け7年を通やしようやく解決し、51歳で故郷信州に帰っている。


故郷に帰った一茶は52歳で菊(28歳)と結婚(初婚)している。「七番日記」はこの時期のものである。一茶は早く子供がほしかったらしく、子づくりに励む様子がこの日記に書かれている。「八月十日 晴 妻二用アリ 黄散 」。これは「黄散」という強精剤を服用し、妻と交わったという記録で、50歳を過ぎての子づくりに励む一茶の悲愴感が伝わってくる。この強精剤を飲んだ記録が日記の中にしばしば出てくる。


またこんなことも日記に記録している。「八日 晴 菊女帰ル 夜五交合」「十二日晴 夜三交」「十五日 晴 婦夫月見三交」「十六日 晴る・・三交」「十七日墓参夜三交」「十八日晴 夜三交」「十九日 晴 三交」「二十日 三交」「二十一日 雨乞い四交」。三交とは夫婦の交わりが3回あったということであり、一晩で5回もあった夜もあり驚く。彼の日記は夫婦生活の有様を几帳面につけている。誇張ではあるまい。


一茶は妻との交合(セックス)に情熱をもやして、子つくりに精を出し、幸福感を味わおうとしたのかもしれない。晩婚の彼のあせりみたいなものも感じる。しかし、妻、菊が懐妊してからも度重なる交合を繰り返しているから、子づくりの他に、50歳にして女体に接し性欲をみたす快楽的追求もあったと思われる。


その努力の結果(?)、一茶夫婦の間に4人の子供が生まれているがどの子供も夭折しているのは何故だろうか。妻、菊も37歳で短い生涯を閉じている。この「七番日記」から一茶の几帳面さと同時に人間臭さも感じられる。しかし、一茶の要求(欲求)を満たすためにそれに応じた菊の生涯は哀れな気もする。


小林一茶著 七番日記(上・下)岩波文庫 2003年11月刊

詩はいじめへの復讐

第10回「中原中也賞贈呈式」と中原中也生誕祭「空の下の朗読会」が、それぞれ29日(祝)中也の生地山口県湯田温泉で開かれる。今回の受賞は三角みづ紀さんの「オウバアキル 」である。すなわち「overkill」で過剰殺傷力の意味である。三角さんは小中学校時代いじめにあい、現在難病「全身性エリテマトーデス」に苦しんでいる大学生である。昨年は「第42回現代詩手帳賞」を受賞しての連続の受賞である。その彼女がある新聞のインタビューに「詩を書くのはいじめへの復讐です」と答えているのに彼女過去の体験が重くのしかかっていると感じた。


彼女にはBLOG「ニンゲンイジョウ」があり、その2月21日の日記に「中原中也賞をいただいてから3日…なんだか実感がわかない…4月には山口県で授賞式がある。それまでには痩せねばならぬ。昨年度受賞の久谷雉くんも呼ばれているらしいから安心。300分の1の確率でもらえた賞。これから忙しくなるぞ」とその喜びを語っている。


この詩集には28編収められ、ある新聞には「いじめや暴力、自傷行為、クスリ、自殺願望などそれらかを凝視した作品世界から聞こえてくるのは、現代の若者がもつ不安、痛み、SOSの声です」と紹介されている。しかし彼女は病気を克服しながら「生きている/生きている/感謝しよう/全てのものに」と生への渇望っをうたい、「オウバアキリル」の詩集の「あとがき」の最後の言葉、「大丈夫私は元気です。」の言葉に厭世的ならずに生きていこうとする姿勢を感じる。


その彼女が昨日の日記に「病んでます。昨夜から吐きまくり。歩くと気持ち悪くなる、熱がでる。あげく、じんましんがひどくて普段はでない顔にめちゃめちゃでて、新しい妖怪発見。これはヤバいと病院へ。点滴うたれました。でも病状の原因不明。こんなんで明日からの山口行き大丈夫だろうか」と云っていることが気にかかる。29日の授賞式に無事行けることを祈っている。なお彼女の詩はHPオウバアキル社から読むことが出来る。


ブログ ニンゲンイジョウhttp://blog.livedoor.jp/misukimiduki/

HPオウバウキル社http://k.fc2.com/cgi-bin/hp.cgi/ouva_akilu



三角みづ紀著  オウバアキル 思潮社2004.10 刊

いろはカルタ

JR脱線事故の死者95人になり 1両目になお約20人が閉じ込められ死者は100人を超す恐れも出てきたという。その事故のひどさに驚いている。「いろはカルタに」「今日は人の身、明日は我が身」とい言葉があるが、人の運命は予測できないものだ。このことばは古くからあり鎌倉時代の平治物語にも「今日は人の上、明日はわが身の上」などと言い表されていたようであるが、カルタに登場するのは比較的新しいという。


カルタという言葉は手紙、証文なの意でポルトガル語のcarta(英語のcard)に由来し、1543年(室町時代)にポルトガル人がを乗せた船が種子島に漂着したのが契機となり交易が行われるようになり、その品物の中にカルタがあったのが始まりという。最初は内容は和歌などを取り入れた「歌カルタ」が諺やたとえを取り入れた「たとえカルタ」なり、さらに江戸中期からは「いろはカルタ」が出てきたことを「いろはカルタ辞典」で知った。


「いろはカルタ」の定義は(1)47字に「京」を加えて、48字のそれぞれに首字にしたことわざを表したもの。(2)その内容は絵と字で表した札を一対する。(3)江戸後期に上方から始まり、江戸のものが続いている。(4)主に子供向けである。といわれている。


この本をみると、古くからの言葉、最近の言葉、外国の言葉(中国、西洋ことわざ)が日本のカルタにも使われているなど、時代とともに変化してきていることがわかる。面白いと思ったのは「溺れる者は藁をもつかむ」はこれは日本のものでなく西洋の「A drowning man will catch at straw]を翻訳したものでカルタに採用されたのは戦後であるいう。


カルタには教訓的な内容が多く鼻につく場合もあるが、参考になるものも多い。最近は川柳も盛んであるが、今一度カルタの内容に目を通すのも一興である。さて、今界の脱線事故の原因が次第に分かってきたようであるが、最初は置石とかJRの責任を逃れるための動きもあったようだ。そこで「いろはかるた」から一つ。「臭い物に蓋」。関係者はくれぐも不都合なことを隠さないよう願いたい。


時田正瑞著 岩波いろはカルタ辞典 岩波書店 2004年11月刊

最後の瞽女、小林ハルさん逝く

昨日、最後の越後瞽女(ごぜ)といわれた小林ルさんが、老衰のため入居先の新潟県黒川村の特別養護老人ホーム「第二胎内やすらぎの家」で105歳で死去した。瞽女の歴史は古く室町時代、目の不自由な鼓打ちの女性を瞽女と呼んだことから始まり、旅をしながら「門付け」をして三味線に合わせて民謡、端唄などを歌いお金をや米をもらって歩いた女性たちをいう。


ハルさんの逝去から、水上勉が描いた「はなれ瞽女おりん」を思い出した。水上さんが描くこの小説は若狭の片田舎に生まれ、3歳で盲目になった「りん」は、越後、高田の瞽女屋敷に引き取られ芸を仕込まれるが、ある祭りの夜、若い衆に手込めにされ、掟に従い「はなれ瞽女」となり、途中危険な目に会いシベリア出兵を拒否し脱走兵だった平太郎に助けてもらい2人で旅を続けるというストーリーである。


この小説は映画、演劇にもなり話題を呼んだ作品で、水上さんは当時の日本のシベリア出兵、米騒動を背景に底辺に生きる二人を描いている。平太郎が「三才から世の中に放り出された女を、この国は面倒をみたことがあったか。その国に奉公なぞなぜできる」と云う場面に水上さん思いが込められている。


ハルさんも生まれてすぐ白内障により両目の光を失い2歳で父を亡くし、母とも11歳で死別。それからは彼女は苦難の歴史であったといわれる。5歳で瞽女の親方に弟子入り9歳から北陸や東北地方の農山村を70年近く巡り歩き、最後の越後瞽女として知られていた。昭和53年、「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」の技芸者と認定され、54年には黄綬褒章受章している。ハルさんは長い歴史のある瞽女の文化を継承してきたわけである。


ハルさんはある時「生きているかぎり全部修行だと思ってきましたが、今度生まれて来るときはたとえ虫でもいい、目だけは明るい目を貰いたいもんだ」と述べたそうである。彼女の生涯の思いが伝わってくる言葉である。


小林ハルさん、105歳で長寿を全うす。  合掌。


水上勉著  越後つついし親不知・はなれ瞽女おりん  新潮文庫

散歩唱歌

私の町は昔から藤の名所である。以前、藤を歌った詩があることを知人から教えられ、メモしていたが誰がつくったのかずっと分からないでいた。

 

あの藤ほしや いかにせん
あおげば 岸はいと高し
招くに似たる 紫の
房は松よりまがりたり

 

今日、偶然に「日本唱歌集」を見ていてそれが明治34年にできた散歩唱歌」</a>の歌詞の一部であることを発見した。作詞者は大和田建樹(たけき)で、有名な「鉄道唱歌」の作詞者でもあることがわかった。「鉄道唱歌」も長いが、この「散歩唱歌」も春夏秋冬ごとに季節やその風景に合わせて、春15、夏10、秋15、冬10と50番まであることには驚いた。私が教えられた「藤」の歌詞は春の12番目にあった。

 

大和田建樹(1857~1910)は愛媛県宇和島出身、国文学者・歌人で東京高師、女高師の教授を務め、唱歌の作詞を始めた。彼の作詞した唱歌は「鉄道唱歌」や「散歩唱歌」の他に「旅泊」 「故郷の空」などよく歌ったものもあり懐かしく感じた。

 

  旅泊

1 磯(いそ)の火ほそりて 更(ふ)くる夜半(よわ)に
岩うつ波音(なみおと) ひとりたかし
かかれる友舟(ともぶね) ひとは寝(ね)たり
たれかに かたらん 旅の心

2 月影(つきかげ)かくれて からすなきぬ
年(とし)なす長夜(ながよ)も あけにちかし
おきよや舟人(ふなびと) おちの山に
横雲(よこぐも)なびきて 今日(きょう)ものどか

 

故郷の空

 

1 夕空(ゆうぞら)はれて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫(すずむし)なく
おもえば遠し 故郷(こきょう)のそら
ああわが父母(ちちはは) いかにおわす
 
2 すみゆく水に 秋萩(あきはぎ)たれ
玉(たま)なす露(つゆ)は すすきにみつ
おもえば似たり 故郷の野辺(のべ)
ああわが兄弟(はらから) たれと遊ぶ

 

それにしても、なぜ「鉄道唱歌」や「散歩唱歌」のような長い歌を作ったのだろうか。「鉄道唱歌」は地理教育に役立ちそうだが、「散歩唱歌」はその季節、風景に合わせて歌うとすれば誠にロマンチックではないか。明治の人々は味なことをする。

 

*散歩唱歌http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/sanposhouka.html

 

堀内敬三・井上武士編 日本唱歌集 岩波ワイド文庫  1991年6月刊