世間とは(阿部謹也氏を悼む) | 日月抄ー読書雑感

世間とは(阿部謹也氏を悼む)

西洋社会史研究の第一人者で、「世間」をキーワードに独自の日本人論を展開した歴史学者の阿部謹也氏が9月4日亡くなった。遅ればせながら謹んで哀悼の意を表したい。

阿部さんの「世間」論については小生のHPに彼の著書「日本人の歴史意識ー「世間という視覚からー」 の書評をのせている。この本は古代から現代までの「世間」という視点からの日本人の歴史意識の変化を知る上で参考になる。

その中に阿部さんは「日本には世間という人と人の絆があり、その世間が個人を拘束している・・日本人は自分の振舞いの結果「世間」から排除されることを最も恐れて暮らしている。これは欧米では訳すことができない言葉である」と言っている。

先日、私の町内で昔から続いている「町内会」を脱退したいという者が現れた。隣近所のいざこざ(当事者にも原因がある)が原因である。東北農村の旧態依然の村落共同体的な扶助組織の性格もつ「町内会」は阿部さんの言う「世間」の要素を多分にもっており、それをを脱退しようとするするには相当の勇気がいる。しかしその脱退は世間という拘束から自由になりたいという個の確立ではなく、いわば世間からの一時逃避であると考えている。

しかし彼はそのような「世間」のしがらみから逃避したといえ、近代社会の「地域社会」からは逃れることはできない。先日、隣の家の木に「アメシロ」という害虫がつき家に入ってきて困るから町内会でなんとかしてくれと町内会長の私に抗議してきた。町内会長はそれは隣家との個人の問題であるから自分で交渉したらといった。それでも心優しき町内会長はすぐ隣家に連絡して駆除してもらったが、このように自然的・環境的においても地域社会から個人は逃れることができないのである。

阿部さんはこの本の最後に「世間の中でうまく適応できない人がいる。しかし世間とうまく折り合うことができない人は世間の本質を知り歴史と直接向き合うことができる。そのような意味で歴史はまず世間とうまく折り合えない人が発見していくものである」と述べている。世間とうまくおりあえず町内会を脱退した者が世間の本質を知っているとは思えないが、確かに世間から外れないようにうまく適応しようとしている人が多いのも事実である。阿部さんには「地域の変貌と世間」についてもっと教えてもらいたいことがあった。

阿部謹也著  「日本人の歴史意識ー「世間という視覚からー」岩波新書 2004年1月刊