無季俳句 | 日月抄ー読書雑感

無季俳句

遺品あり岩波文庫『阿部一族』  鈴木六林男


俳人,黒田杏子(ももこ)さんが学生時代この無季俳句に出会い衝撃を受けたことを新聞連載のエッセイー「定型詩の中の戦争」のなかで書いている。「この一冊の文庫本を残して戦場に息絶えた兵士とその事実を心をこめて詠みあげている俳句作者にこころの底から連帯感を抱いている自分がいた」と黒田さんはのべいる。

後年、黒田さんは六林男(むりお)と知り合い、彼は「岩波文庫の句、あれは誰の遺品でもない、あの本を持っていたのはこの六林男だよ。だから句を詠めた」と語ったそうである。無季俳句などで表現の可能性を追求したこの俳人は、西東三鬼に師事。戦時中は中国やフィリピンを転戦している。そときに戦場の人間模様を鋭くとらえた句を作っている。

先に私は「季語集を読む」の書評を書いたが、作者の坪内稔典氏は言葉の端々にく定型季語の俳句の限界をそれとなく示唆しているように感じていたところ、この鈴木六林男の句に、かなり遅れている私も黒田さんの紹介によって衝撃をうけ、共感を覚えたのであった。

ところが現代の俳句界はホトトギスの流れを汲む稲畑汀子らの日本伝統俳句協会が一つの大きな流れがあり、社会性や土着性を重んずる金子兜太らの現代俳句協会が対峙しているようだ。(単純な見方でもっと複雑かもしれない)稲畑と金子はNHK俳句の選者として顔を出すときはあるが二人の俳句観の対立が出てきて,面白く拝見している。金子の方がその経歴から言って無季俳句に共鳴を示しているように思える。

最近、従来の風雅の対極に生きた無季俳句の鬼才、林田紀音夫(きねお)の「林田紀音夫全句集」が出版された。人間の悲嘆の表層を描くペシミズムは俳句から限りなく遠い。林田は批判を受けながらこのペシミズムを基底に、徹底して風雅を追わず自己と等身大の生を無季俳句に写し取ったという。(毎日新聞専門編集委員酒井差忠氏の言葉)

鉛筆の遺書ならば忘れからむ  林田紀音夫  

浅学の身で俳句云々はおこがましいが、季語を上手に駆使し豊かな自然詠の句が主流の中で、無季語であるが我々の琴線に触れるものもあることに最近気付き始めた。

林田紀音夫著 林田紀音夫全句集 富士見書房 2006年8月刊