白洲次郎の直言 | 日月抄ー読書雑感

白洲次郎の直言

珍しくわが田舎町の書店に今売れている本の中に白洲次郎の本が3冊並んでいた。白洲次郎の流儀 (白洲次郎・白洲正子・青柳恵介・牧山桂子他著 新潮社2004-09-25出版)、白洲次郎占領を背負った男( 北康利著 講談社 2005/08出版)、プリンシプルのない日本(白洲次郎著  新潮文庫 2006/06出版) である。

今何故「白洲次郎なのか」つい先日、「風の男 白洲次郎 新潮文庫」を読んだばかりであるが、確かに体制の中にいながら権力に靡かず自分流に生きた男して惹かれる面があるが、所詮は上流階級の貴族的人間という先入観はぬぐえなかたった。だが待てよ、こんなに自由に振舞える人間が現在の財界、政治の世界にいるのか?否である。彼の評伝を書いた青柳恵介氏は「風の男」、親友であっ作家今日出海氏は「育ちのよい野蛮人」と呼び、本人は「カントリージェントルマン(田舎紳士)」と自称した白洲次郎への郷愁が共感を呼ぶのも、現在、「魅力ある人間」の欠乏のせいであろうか。

一体、彼自身、戦後の日本をどう見ていたのだろうか?彼が諸雑誌に載せた雑感(政治、経済占領政策、日本人論)が平成13年出版され、今回新潮文庫から出たばかりの「プリンシプルのない日本」を(1951年(昭和26年)から5年間、文芸春秋に載せたものを)読んでみて特に感じた点を書いてみたい。

新憲法制定でGHQとかかわった白洲の新憲法の性格と改正問題は今日的問題としても参考になる。白洲は「現在の新憲法は占領中米国側から「下ろしおかれた」もので・・占領がすんで独立を回復した今日ほんとの国民の総意による新憲法ができるのが当然であると思う」という基本的考え方を述べている。しかしその憲法のプリンシプルは実に立派である。戦争放棄の条項はその圧巻であり、押し付けられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきであるとも述べ、その柔軟な考え方は昨今の憲法改正論者と違うことに気付かされる。



また安保条約を結んでいるアメリカへの姿勢も傾聴に値する。彼は戦後占領政策の非なる部分に断固反対した石橋湛山を賞賛し、政治家、役人の中に「骨のある奴がいない」「八方美人が多すぎる」と嘆いている。だから「アメリカがどんどん主張しこちらはおっかなびっくりで、何も云わないようなら、日を経るにしたがって残るのはただ誤解と悪感情だけだ。政府も殊更外務省や駐米の大使館はもっと勇敢に信念をもってアメリカに当たるべし」と述べている。これを書いたのが1956年、今から50年前である。日本の対米政策の現状を考えるときに白洲の警告は全然生かされていない。日米同盟は大切であるが、モノをいえない日本外交を墓下の白洲は苦笑しているに違いない。

白洲は妻の正子の関係で吉田茂と縁戚関係にあり、彼とウマがあい何でも云える間柄であったが、吉田茂の政治家としての功罪の最大の失敗は辞め時をあやまったことにあるという。サンフランシスコ平和条約の帰路「あなたの政治的役目はすんだから帰朝後辞める様に」と忠告したそうである。しかし池田勇人の慰留にあって辞めず最悪の事態を迎えたという。それでも「吉田老は枯れない滅私奉公の愛国者であったが、成果としての失敗は彼の年齢であり彼の育った時代の結果であり彼を責めるのは酷である」と吉田を敬愛していたことが分かる。

全体としてこの本は世の中全般にわたる文明批評でもあり、その内容は一方に偏せず公平に物をみて判断し直言する態度には感心する。彼を精神的貴族としか見なかった不明をわびたい。

白洲次郎著 プリンシプルのない日本  新潮文庫  2006/06出版)